“鉄炮の街” 堺の「七道」を歩く ➋
「鉄炮鍛冶屋敷」では、よみがえった「清瀧鉾(せいりゅうぼこ)人形」の修復記念展示も行
われていました。京の祇園祭などで見る “鉾” が、昔の堺では菅原神社や開口(あぐち)神社
のお祭りに出ていたそうです。江戸時代につくられ、鉾に載せられていたこの人形、修理の
ために古い着物を剥がすと、意外と簡易な骨組みであったことが分かったとのこと。
(次の3葉の写真は、修復記念展示パンフより抜粋)


一風変わった「風間寺」は、大坂夏の陣で全焼した堺の街の復興の際、復興後の町割りを
碁盤の目のようにすることを計画、地割奉行となった風間六右衛門が信心する日蓮宗の寺に
広い土地を与えたらしい。江戸幕府への出頭を命じられるや、江戸へ行くと云い残して堺の町
を出たこの地で自刃したと云う。死を悼んだ町の人々は、その地にお堂を建てて供養したんや
そうです。現在の風間堂は、六右衛門400遠忌を記念して平成22(2010)年に復興されたもの。

堺の町を南北に貫く「紀州街道」に沿って南に進んだ先に「水野鍛錬所」。この日は休業日
でしたが、明治5(1872)年創業の刀や包丁を鍛える工房です。小雨が降ってきました。


以前(2019年11月)に訪ねた
時の写真2葉を載せておきます。
戦後の法隆寺大改修の時、
国宝の五重塔九輪四方に掛け
る “魔除け鎌” を鍛えて、昭和
27(1952)年に奉納したそうです。
左の写真は予備品だとか。
朝から並んで、火の粉をかぶ
りながら撮った打ち初めの模様
は、さすがの迫力でした。
次は「山口家住宅」です。慶長20(1615)年の大坂夏の陣の戦火で堺が全焼した直後に建て
られた江戸時代初期の現存する数少ない町家建築だそうで、昭和41(1966)年に国の重要文
化財に指定されています。近隣農村の庄屋を務め、奉行所と町方・村方とをつなぐ役割だった
そうです。屋号が “越前屋” だと云うので、思わず時代劇のセリフが浮かびますなぁ。

“へっついさん” と云ってましたね。かまどです。多くの人が働いていたんでしょうね。






この駕篭は輿入れの時に使った “嫁入り駕篭” だそうです。
もともと「堺」は徳川方です。
だからかどうかは知らんけど、
所々に “反骨” が顔を出します。
鉄砲も「鉄炮」と書きますし、
“家康の墓” と云うのが南宗寺
にあったりします。
豊臣兄弟による大坂城や大和
郡山城の建設、城下町の整備に
大和川上流域で大量の木を伐っ
たことが大和川の付替えを招き、
堺の港を浅くして衰退を招いて
しまったんだとのたまいます。


今回、「大阪おもしろツアー」に参加して歩いてきましたが、帰途は “ちん電” で天王寺駅前へ。
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