街あるき

2026年7月 9日 (木)

“鉄炮の街” 堺の「七道」を歩く ➋

   「鉄炮鍛冶屋敷」では、よみがえった「清瀧鉾(せいりゅうぼこ)人形」の修復記念展示も行
われていました。京の祇園祭などで見る “鉾” が、昔の堺では菅原神社や開口(あぐち)神社
のお祭りに出ていたそうです。江戸時代につくられ、鉾に載せられていたこの人形、修理の
ために古い着物を剥がすと、意外と簡易な骨組みであったことが分かったとのこと。

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 (次の3葉の写真は、修復記念展示パンフより抜粋)
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  一風変わった「風間寺」は、大坂夏の陣で全焼した堺の街の復興の際、復興後の町割りを
碁盤の目のようにすることを計画、地割奉行となった風間六右衛門が信心する日蓮宗の寺に
広い土地を与えたらしい。江戸幕府への出頭を命じられるや、江戸へ行くと云い残して堺の町
を出たこの地で自刃したと云う。死を悼んだ町の人々は、その地にお堂を建てて供養したんや
そうです。現在の風間堂は、六右衛門400遠忌を記念して平成22(2010)年に復興されたもの。

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 堺の町を南北に貫く「紀州街道」に沿って南に進んだ先に「水野鍛錬所」。この日は休業日
でしたが、明治5(1872)年創業の刀や包丁を鍛える工房です。小雨が降ってきました。

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     以前(2019年11月)に訪ねた
   時の写真2葉を載せておきます。
                      
     戦後の法隆寺大改修の時、
   国宝の五重塔九輪四方に掛け
   る “魔除け鎌” を鍛えて、昭和
   27(1952)年に奉納したそうです。
   左の写真は予備品だとか。 
                    
    朝から並んで、火の粉をかぶ
   りながら撮った打ち初めの模様
   は、さすがの迫力でした。
  

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  次は「山口家住宅」です。慶長20(1615)年の大坂夏の陣の戦火で堺が全焼した直後に建て
られた江戸時代初期の現存する数少ない町家建築だそうで、昭和41(1966)年に国の重要文
化財に指定されています。近隣農村の庄屋を務め、奉行所と町方・村方とをつなぐ役割だった
そうです。屋号が “越前屋” だと云うので、思わず時代劇のセリフが浮かびますなぁ。

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 “へっついさん” と云ってましたね。かまどです。多くの人が働いていたんでしょうね。

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 この駕篭は輿入れの時に使った “嫁入り駕篭” だそうです。

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Nankairailwaylinemap-a   もともと「堺」は徳川方です。
  だからかどうかは知らんけど、
  所々に “反骨” が顔を出します。
   鉄も「鉄」と書きますし、
  “家康の墓” と云うのが南宗寺
  にあったりします。

   豊臣兄弟による大坂城や大和
  郡山城の建設、城下町の整備に
  大和川上流域で大量の木を伐っ
  たことが大和川の付替えを招き、
  堺の港を浅くして衰退を招いて
  しまったんだとのたまいます。


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 今回、「大阪おもしろツアー」に参加して歩いてきましたが、帰途は “ちん電” で天王寺駅前へ。


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2026年7月 6日 (月)

“鉄炮の街” 堺の「七道」を歩く

 江戸時代からの街並みが残されている「七道」の由来は、かつて “七堂濵” と呼ばれ、行基
が開いた清浄土院高渚寺(たかすじ)の “七堂伽藍”(三門/本堂/塔など7つの建物) があった
からだそうな。南海本線「七道」駅前ロータリーには、不思議な姿の銅像がありました。

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  銅像は「河口慧海(ーえかい)」です。仏教原典入手のため、明治30(1897)年に神戸を発ち、
苦難の末、鎖国下のチベットに赴き、6年もの潜入行からの帰国後、「西蔵(チベット)旅行記」
を著した人です。その慧海も学んだと云う修験道場「清学院」には、ゆかりの資料や寺子屋
教科書が展示されていました。その途中、慧海の生家跡との石標も残されていました。(狭っ)

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   七道駅のスグ西に巨大なイオンモールが
  出来ています。もとのダイセル(大阪セルロ
  イド)の工場跡地で、伊丹空港の前身と云わ
  れる、かつての木津川飛行場を飛び立った
  水上機(白浜行き?)がその煙突に衝突した
  ことがあるとか。
   富士フィルムは、ダイセルの子会社として
  誕生した会社です。七道にフジカラー現像所
  があり、高校写真部のころ、郵送にしないで、
  カラーフィルムの現像/焼付を頼みに、しばし
  ば訪ねたものでした。

 七道駅前には、もう一つ、「鉄砲鍛冶射的場跡」碑もありました。大正時代、運河掘削中に
漢文碑「放鳥銃定限記」が発見され、鉄砲師範が試射場を作って砲術を研究していたと云う。
かつて七道にあった高さ1.8mの “鉄炮塚” から大和川に向けて試射していたんだそうです。
鉄砲にゆかりが深い土地であるゆえ、七道駅界隈は、現在も「鉄炮町」と呼ばれています。

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 大坂冬の陣で埋められるまで、中世の堺は “環濠自治都市” で、防御面だけでなく、環濠が
各地との交易品の輸送経路としても活躍したらしい。遊歩道として復元整備された環濠の近く
に「海船政所跡(かいせんまんどころー)」と云う碑がありました。
 阿波の三好長輝が阿波と京との中継地点として館を築き高楼を構えて、尼崎城や岸和田城
をも統括、三好一族の本拠的な役割を果たしたそうな。

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  ところで、堺市の住居表示に “目” がない
 のは何でや?と云う件ですが、大坂夏の陣で
 壊滅した堺を再整備した “元和の町割り” を
 ルーツとして、町を細分する意味の “目” では
 なく、独立した“町” と同格の “丁” を用いる
 ようになったんやそうです。
  だから、後から市域に加わった美原区では
 “丁目” が使われているんですな。 


 戦災を免れた町割りの街路では、碁盤の目の筋が遠くまで一直線に続いていました。

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 七道駅から西に延びる道は、環濠の北部分であった土居川を埋め立てたもので、高渚寺の
“七堂伽藍” へ参詣するための橋が架かっていたそうな。その千日橋の近くにあった「千日井」
が道路わきに残されています。上水道が整うまでは、飲料水源として利用されたと云う。

 傍らには、堺の鋳物師であった神南辺道心(かんなべー)が建てた供養塔もありました。道心
は、放蕩の末に改心し、近畿一円に井戸や橋を作る慈善活動に尽力した人だそうです。

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 次に訪ねたのは「鉄炮鍛冶屋屋敷」。井上関右衛門家住宅だったのを補強復元した建物です。
全国で唯一残る江戸時代の鉄炮鍛冶の作業場兼住宅で、屋敷全体が堺市の有形文化財に
指定されています。堺の鉄炮は工程ごとの分業による大量生産体制を整えることによって、
日本一の鉄炮生産地になっていったそうです。
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 この復元されたフイゴ(吹子)は、高さ1m長さ2mもあって、日本一の大きさらしい。

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 ボランティアガイドの一人は、もと井上家のご当主で、鉄炮製造の体験談が詳しかったです。

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 この日、大雨の予報だったんですが、時々小雨くらいで救われました。でも、濡れても良い
ように、カメラをコンデジだけにしたため、かなり制約がありました。 (次回に続きます)

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2026年6月 4日 (木)

ぶらり「大正」

 “大阪あそ歩” のテクテクツアーに参加して、JR大阪環状線大正駅前から頻発するバスの
大正区役所前バス停に集合。市内で2番目に高いと云う「昭和山」から「大正内港」を眺めて、
渡船のある「千歳橋」へんをブラブラしてきました。

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  標高33m、地下鉄の掘削で出た残土を盛り上げてできた「昭和山」は、低地が多い地域に
“港が見える丘” を創ると云うことで計画されたそうです。鶴見区の「鶴見新山」がゴミ処分場
として造られた山でしたが、似たような構想だったようです。

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 この辺は、低湿地を開拓してきた長い歴史があって、大正内港を前にした産土神社も江戸
時代に開発された小林新田と岡田新田の守護神として創建されたもので、特に貯木場の町
として栄えた大正、昭和時代は大いに賑わった。社殿は戦災で全焼したが、その後に再興、
昭和50(1975)年の都市区画整備に伴って現在地に遷座されたんだそうな。

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 産土神社のスグ前は、高い防潮堤に囲まれた大正内港臨港緑地になっていて、防潮堤を
乗り越えると、内港に突き出た200mの桟橋の両側に中小型船がぎっしりと係留されている
港らしい光景が展望されます。幼き頃、市内の城北運河で学校帰りによく見た “機帆船” が
集合している姿を思い起こしていました。あの時は、砂糖の原料を運び込んでいたんでした。

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 この「大正内港」は、戦後の復興事業として進めていた大阪港復興計画の一部として、河川
を大幅拡張して内港とし、その際の土砂で区内を2mも盛土すると云う区画整理事業が進めら
れたんやそうです。昭和50(1975)年に完成、それまであった貯木場は住之江区に移転しました。

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 このあと、大正内港の北側に沿って「北村南公園」を西進し、「千歳橋」に向かいます。手前
に並んで見えるのは、浚渫作業船団のようですが、連休中のこの日、作業はお休みでした。

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 対岸へ渡る高い橋が見えてきました。「千歳橋」です。平成15(2003)年に完成したこの橋は、
海面から高さ28m、橋長365mもあり、生駒、金剛 、六甲の山並みや林立する市内のビル群が
くっきりと見えるそうです。大正時代に架けられた旧橋を内港造成時に架け替えたものです。

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 橋があっても、大型船を通すために高い位置にあるため、大正区内には7ヶ所所の “渡船”
が残っていて、道路の位置づけなので無料です。「千歳渡船」も朝から夕方、10~20分間隔
で運航、千歳橋の下をくぐるように進みます。晴れた日には、海風が心地よい3分間でした。

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 対岸の鶴町側からみた「千歳橋」。橋脚が高く、アプローチも長い。徒歩や自転車では使えん。

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 5分歩いて「鶴町4丁目」バス停からは「大正橋」(大正駅前)まで25分程でした。


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2026年5月18日 (月)

「のだふじ」と「ななとこ巡り」➋

 元々は藤家の邸内にあった「野田春日神社」のノダフジは、まだ咲いていました。うれしや!

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 「ノダフジ」は 600年昔より “吉野の桜か野田の藤” と称えられ、将軍足利義詮(よしあきら)
や太閤秀吉も野田の旧家藤邸に来遊したそうな。もとの原木は戦災やジェーン台風で枯死し
たものの、江戸時代に宇和島へ株分けされていた古樹から接ぎ木して移植したらしい。 

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 「野田藤発祥之地」碑の近くに、白い「ノダフジ」もありました。その傍らに、植物分類学の父、
牧野富太郎博士がこの地を訪れ、藤家の周辺のフジを調べ、ヤマフジとは別種の「ノダフジ」
と命名したことが記されていました。「ノダフジ」は花色が淡い紫色で花房が長くなるのですが、
ヤマフジの花は大きくて色が濃く花房が短いそうです。

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 藤家の豪邸があった跡地には、「白藤大神」と「影藤大神」の二つの社が残されていました。

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 藤邸の庭は、大阪市に寄付移設され、今は下福島公園内にフジ棚が設えられていますが、
こちらの花は、ほとんどもう終わってしまっていました。この公園は、大日本紡績福島工場と
大福紡績の工場跡地です。大福って、大阪福島のこと?

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 おっと、 「ななとこ巡り」と云いながら、6つしか行ってないのですが、まぁ、ご愛敬。

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 下の地図は「のだふじ巡り2026」より抜粋。これで見ると、京阪電車中之島駅からJR大阪環
状線野田駅へ向かってもよかったんです。 次の機会には、満開の時季に来たいですね。

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2026年5月14日 (木)

「のだふじ」と「ななとこ巡り」

 藤にはノダフジとヤマフジの2種類があって、その違いは、支枝につく葉の枚数だそうです。
必ず奇数で、15枚以上がノダフジなんだそうです。従来、ツルが右巻きか左巻きかで区分す
るのが定説なれど、それではよう分からんらしい。そう規定したのは、あの牧野先生ですがね。
(1枚目の写真は、のだふじ巡り事業連絡会発行の「のだふじ巡り2026」より借用)

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 “大阪おもしろツアー” に参加して「のだふじ」を見に行ったんですが、どうやら盛りが過ぎて
いて、街なかで個々人が育てておられるのは、とき既に遅しのようでした。そのためもあって、
旧野田村のお地蔵さんの「ななとこ参り」をも併せて歩くことになりました。

 快速が通過するので、停まる電車が3本に1本しかないJR大阪環状線野田駅に集合、まず
は大阪環状線から降りて来る「大阪環状線貨物支線(大阪市場線)」廃線跡に寄り道です。

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O0785060114990565595  この貨物線は、野田駅の横からスロープ
 を降り、環状線の高架下を潜って中央市場
 へ延びていたんですが、昭和59(1984)年に
 廃止されています。線路跡地には野田緑道
 が整備されていました。

  現在、梅田貨物線を通ってきたコンテナ列
 車は、環状線に並走して西九条から安治川
 貨物駅に入っていますが、かつては 博多か
 らの鮮魚特急 “ぎんりん” が幅を利かせて
 いたんでしょうな。

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 廃線跡の緑道に配されていたのは “おたぬきさん”。祠の中にどっしりと「源吉大明神」は、
戦火から町を守ったと云われる火除けのおたぬきさん。

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 子供を抱っこした子安地蔵。さすって願掛けするらしい。 右のは出世地蔵。

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 野田村一帯は、戦火に会わなかったとかで、昔ながらの長屋や路地が濃く残っているんです。
京都市内で見掛ける “トンネル路地” みたいなところも残されていました。静粛に通過。

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 細い路地の奥に「宝稲荷大明神」。伏見稲荷から “正一位” をいただいている由緒ある稲荷。

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 町なかで見掛ける “育成名人” の「のだふじ」。こうしたふじのある風景がアチコチで見られ、
町中に香りが漂うそうです。今回は、遅きに失したようです。残念。

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 恵比須神社のふじ棚も、既に散った後でした。「のだふじ」の育成は、大変に手が掛かるそう
です。何でも、伸びてくる蔓を切ることを繰り返し、葉がおごらずに花だけを咲かせるのが最上
なんやそうです。時には葉だけが繁って、なかなか花が咲かないこともあるらしい。

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P1070017   必死に探して、ようやく見つけた花。
  このあとで訪ねる “のだふじ発祥地”
  の碑がある「野田春日神社」の花に
  一縷の望みを託して、歩を進めます。
  
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2026年4月30日 (木)

秀長さんの「大和郡山」➎ お城

  安土桃山時代の “野面積み” の石垣が残る「大和郡山城」は、織田信長の命で地元武将
の筒井順慶による築城が始まり、天正13(1585)年の秀長公入城によって、畿内統治の重要
拠点として整備拡充されました。今も残る石垣や天主台は、300年にわたって維持・整備され
てきた土木技術や社会構造を今に伝える歴史資産でもあります。

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 明治6(1873)年に郡山城は廃城となり、櫓・門・塀などの城郭建築は競売によって運び去ら
れましたが、残された石垣や堀の多くは今も往時の姿を留めているそうです。P1060693
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 郡山城の石垣に用いられた石材は、長期にわたって城郭の整備が続けられてきたたため、
年代によって石材も積み方も多様なんだそうです。多くは自然石ですが、中には寺院の礎石
や石燈籠、石臼などの転用石材が1,000個もあるそうです。天主台の石垣の裾に埋められて
いる “逆さ地蔵” もその例でしょう。(写真は天地逆にレイアウトして見やすくしました)

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 天主台からの眺望は抜群です。再建された極楽橋の向こうに旧県立図書館、東北東には
うっすらと “若草山” も遠望できました。

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 大和郡山市発行「郡山城の石垣」によると、施工年代を反映して石垣の様式に相違があり、
天正~慶長のものは自然石主体が多く、元和年間以降は粗割石が主体、寛永年間以降は
割石・切石により構築されているらしい。(この種の石垣は解体事例がなく、実態は不詳)
 積み方も、築石部の目地が通っていない “乱積み” や横目地を通した“布積み” など色々
あって、“野面積み” と一口には云えないようです。

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 再建された東多門櫓(-やぐら)にて「秀長と郡山のあゆみ展」が開催されていました。

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 発掘された金瓦、豊臣大坂城の発掘現場で見たのに酷似してますね。右下のは石仏が彫られ
ていた天主台石垣の転用石。

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 さて今日もよく歩きました。追手門(梅林門)から出て、近鉄郡山駅へは15分ほどです。

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 近鉄郡山駅近くのDMG MORIやまと郡山城ホールで開催中の「豊臣兄弟大河ドラマ館」へは
寄りませんでした。歩き疲れていたのもありますが、番宣でしょ。帰途、西大寺駅構内で休憩。

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2026年4月27日 (月)

秀長さんの「大和郡山」➍

 豊臣秀長公の菩提寺とされる「春岳寺」は、かなり朽ちていたそうです。もとの菩提寺だった
大光院が京都に移されたのち、位牌と墓所の管理を託されて来たものの、少し寂れていたそ
うです。大河ドラマ “豊臣兄弟” 放映の話しが聞こえたのを機に、住職がクラウドファンデング
を決意、本堂が大幅修復され、新しい寺務所も新設されていました。

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 織田信長のもとで、秀長公が郡山城主になったのは、天正13(1585)年。100万石に相応しい
城郭と城下町発展に尽力したことが知られています。地代免除や特許状(独占営業権)で商工
業者を集めた綿町・紺屋町・本町(酒)・茶町など「箱本十三町」の制度を整えたそうです。

 本殿内の収蔵物は全てが撮影不可ですので、配布されている案内パンフからの拝借です。
左上の秀長公木像は、平成元(1989)年に市民からの浄財によって創られたもの。右となりの
木箱が「箱本」の御朱印箱、左下がその御朱印箱に収納されていた古文書、右下の肖像画は、
天明8(1788)年、秀長二百回忌の際に新調されたものと云うことです。

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 もとより「春岳寺」の名は、秀長公の戒名「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士」から貰ったもの。
温厚で誰からも信頼が厚かったと云われ、家臣団の面倒をみて、兄秀吉と諸大名・武将との間
を取りまとめていた由。兄のための補佐に徹した生き方により、名補佐役とされて「大和大納言」
にも昇進したが、惜しむらくは秀吉より早く天正19(1591)年に51歳、郡山城中で亡くなりました。

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 春岳院の南西2kmの高台にある「大納言塚」が秀長公の墓所。毎年4月22日に “大納言祭” が
催され、秀長さんの遺徳を偲ぶ法要が盛大に営まれているとのこと。

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Img_20260416_0003a  廟前に「お願いの砂」と云うがあり、
 念じながら砂箱の穴に3度砂を通すと
 願いが叶うらしいが、やり方が分からず、
 断念しました。次回はお城です。

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2026年4月23日 (木)

“秀長さん”の大和郡山➌「箱本」

 道路の中央に、お城の堀からつづく紺屋川が流れる紺屋町の「箱本館/紺屋」にて小休止。
かつては、この紺屋川の水で染めた糸や布を晒していたんだそうな。暗渠にしないとこがいい。

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 秀長さん以来、奈良の藍染めは、江戸時代もずっと大和郡山の紺屋町に限られていたそう
です。その紺屋町は城下町の中心をなす “箱本十三町” の一つで、幅1mほどの紺屋川に沿
って東西に細長くつづき、150軒近くの紺屋が密集していたと云います。

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 ここ「箱本(はこもと)館」は、江戸時代から続いた藍染商の町屋を再生した観光施設です。
「箱本十三町」の関連資料、藍染体験や金魚ゆかりの工芸品の展示ショップがありました。
「箱本」の名のもとになった木箱やその内容(定め書)の撮影はダメでした。レプリカやのに。

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 全国大会が開かれる金魚すくい道場のある金魚土産の「こちくや」。

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 その先、お城の出入口の近くに奈良最古の菓子舗「本家菊屋」。秀長公が兄秀吉公をもて
なす茶会に献上した餅菓子(粒餡を餅で包み黄な粉でまぶした)が気に入られ、「鶯餅」の銘
を賜ったんだそうな。店がお城の入口にあることから、“御城之口餅” と呼ばれます。

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 次に訪れた「春岳院」は、秀長さんの菩提寺。門前の説明板にある木箱が「箱本(はこもと)」
です。秀長さんによる城下町自治の中心となった制度で、“御朱印箱”には治安・訴訟・課税・
伝馬などの内容と箱渡しの順番や禁制が記された古文書など30数点が保存されている由。
 秀逸なのが、この箱の持ち回りによって自治の主体が月次で交替することと、その数が13
であることによって当番月がズレていくことにあります。なるほどなあ。(写真は拡大します)

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 兄秀吉を支えた “名補佐役” だとされる秀長さん。まだまだ続くんです。

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2026年4月20日 (月)

“秀長さん”の 「大和郡山」➋

 次に向かったのは秀長さんが城下町南端に移した洞泉寺(とうせんじ)に近い「町屋物語館」。
登録有形文化財旧川本家住宅。随所に耐震補強されていますが、壮大な木造三階建です。

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 大正11(1922)年に納屋と蔵、同13(1924)年に本館と座敷棟が建てられ、いわゆる“貸座敷”
として盛業するも、昭和33(1958)年に廃業後は、下宿/貸間に利用したそうな。堅固な構造と
意匠を凝らした装飾など、特殊な建築手法を取り入れた遊郭建築ならではの佇まい。

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 通りに面した一階の格子は目が細かく、障子を開けても見通しにくくなっていました。

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 2階の “客間” は三畳。同様なのが15ほどあり、格子の目が1階よりは少し粗いらしい。

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 電気の供給が不安定だったようで、ガス燈を併用していた模様。電燈のスイッチも大仰しい。

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 “帳場” の覗き窓も猪の目だったとか。ちょっと居たたまれないのが娼妓たちの食器棚。

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 中庭を挟んだ西側は座敷棟で、大広間など、楼主・川本家の私的な空間だったそうな。
中央の井戸は、縁の黒ずんだとこまで自然噴出していたと云う。地下水位が高かったんかな。

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Img_20260418_0001a   遊郭跡と云わず「町屋物語館」と称してい
  るところに、ちょっと引っ掛かりを感じますが、
  館内ガイド付きの見学が無料でした。
  (郡山城はまだ遠く、あと2回ぐらい続きます)
  
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2026年4月16日 (木)

“秀長さん”の大和郡山

  大河ドラマ “豊臣兄弟”の進捗とともに、注目されつつある「大和郡山」を歩いてきました。
近鉄郡山駅とはソコソコ離れたJR郡山駅集合なので、大阪環状線京橋駅からJR大和路線
に直通する“大和路快速”に乗れば、小一時間でJR郡山です。

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 少し早めに着いて昼食をと思ったんですが、ピカピカの駅前には それらしきお店が皆無で、
コンビニに助けられました。郡山では、築城を始めた筒井順慶の影が薄いようで、何かと云え
ば、「秀長さん」です。大河ドラマの展開が弟の秀長になることを心待ちにしているらしい。

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 JR郡山駅東口からスタート、「箱本(はこもと)十三町」のエリアに入ります。

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 かつての秋篠川の流れの跡と云う、整備された外堀緑地。堀は埋め立てられていて面影なし。

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 「薬園寺」と「薬園(やくおん)八幡神社」。奈良時代に薬草園の地に造営されたものらしい。

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 「中嶋源九郎餅本舗」の角を左折すると、独特の雰囲気を持つ建物が見えてきました。

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 「源九郎稲荷神社」は、歌舞伎や文楽の出しもの義経千本桜に登場する “源九郎狐”を祀っ
ている神社だけあって、歌舞伎関係者の参拝が多いらしく、華やかな感じがする境内です。

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 鎌倉時代、兄頼朝に追われた源九郎義経が吉野に逃げる道中を護ってくれた白狐に自分の
名の「源九郎」を与えたそうです。のちに、秀長がその白狐を築城の守護神としたんだそうな。

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1    この日、3時間の予定の「大阪あそ歩」
  のテクテクツアーでしたが、4時間近くの
  歩き詰めでしたよ。次回につづきます。 

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