歴史・遺跡・現説

2024年4月29日 (月)

「本(もと)薬師寺跡」の発掘調査

 天武天皇が皇后(のちの持統天皇)の病気平癒を祈念して、天武9(680)年に発願されたと云う
「本薬師寺」は、平城京への遷都に伴って藤原京から移転した奈良市西の京の「薬師寺」のもと
の薬師寺と云うことで「本(もと)薬師寺」と呼ばれています。
 もっとも、過去の発掘調査で、金堂跡や塔跡から奈良時代~平安時代の瓦も出土したことから、
平安時代まで、修理をしながら「本薬師寺」に堂塔が残っていたことが明らかになり、平城京の
薬師寺は、移築されたものではなく、新たに建てられた可能性が高くなっているそうです。

 飛鳥石神遺跡発掘現場の見学会のあとで、近鉄畝傍御陵前駅から、その「本薬師寺」跡の発掘
現場に向かいました。晴れてるのに、小雨が降り、香具山から妙な雲がたなびいていました。

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 珍しいことに、発掘現場の中にまで板が敷いてあり、直近まで近づいて見ることができました。

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 今回の調査では、南門の南東コーナー部を良好な状態で検出できたそうです。そこでは南門の
基壇外周の石敷きが直角に屈折しています。石敷内には、幅60cm,深さ5cmの雨落ち溝があって、
南門南東隅から雨落ち溝までの距離が4m近いので、相当大型の建物であったことが想定されます。

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 (左図は当日配布の説明資料より抜粋)
  クリックで拡大します


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                                         (配布の説明資料より抜粋/クリックで拡大します)
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 石神遺跡から飛鳥川沿いに歩いても良かったんですが、ちょうど来たバスで橿原神宮前駅に戻っ
て、畝傍御陵前まで、一駅、近鉄電車に乗りました。風が強かったのと、妙な雲が出て、にわか雨
に会うかも知れない状況でした。それにしても、現地見学会の連チャンと云うのも初めてでした。

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2024年4月25日 (木)

飛鳥/石神遺跡の再発掘

  飛鳥の漏刻(水時計)で知られた「水落遺跡」のスグ隣にある「石神遺跡」の発掘現地見学会に
行ってきました。近鉄の橿原神宮前駅からの “赤かめバス” で15分ほどの飛鳥バス停で降りると、
駐車場の右手奥に見えるのが「水落(みずおち)遺跡」です。

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 「飛鳥水落遺跡」は、24本の柱で構成された総柱建物の跡で、他に例のない “地中梁工法” で
構成されていた「漏刻台」(水時計)の跡として知られています。
(地図は当日の案内図/クリックで拡大)
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 正方形の基壇のほか、木樋の暗渠や銅管、基壇内部に引き込んだ水を基壇上へ汲み上げる装置と
ともに、中国に現存する元~清代の漏刻の受水槽と同様の漆塗木箱の痕跡も 検出されたそうです。
この「漏刻台」は、中大兄皇子が造ったものとされ、当時の中国的な政治理念による「時の支配」
の観念を具体化したものだそうです。

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 さて、「石神遺跡」です。今回の発掘調査は、昭和56(1981)年に行われた第1次調査区域の
再発掘が中心で、新たに7世紀の各時代の区画塀を検出、なかでも石組み溝と一体的に機能した
と思われる区画塀を検出、7世紀前半の石神遺跡の区画南隅を確認できたと云うことです。

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 発掘直後の状態を説明する写真も掲げられていました。石組みも、側石の立て方や底石の有無
など、時代によって、石組み溝の構築方法が異なっています。

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 石組み溝と自然流路、そこに石敷が広がる光景は、ここ「石神遺跡」が “古代の迎賓館” であっ
たことを彷彿とさせます。高句麗や百済が唐・新羅に滅ぼされる緊迫した時期に、強力な国つくり
を進めた斉明天皇(女帝)によって、運河や船団が整備され、百済復興や東北への領地拡大をめざし
ていたそうです。そんなときに造営されたのが「石神遺跡」であり、「水落漏刻台」でした。
 飛鳥時代の政治・文化の中心となった飛鳥宮跡の北東に位置し、官衙(かんが)施設の一画を担っ
たこれらの遺跡は、日本の国家形成過程における重要な役割を担った遺跡だと云うことです。

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Img_20240425_0001a  ここ「石神遺跡」の遺構からは、
 飛鳥時代の全般を通じて度重なる改
 造が繰り返されてきた痕跡が見つか
 っています。
  東北地方や朝鮮半島からもたらさ
 れた土器も発掘されていることから、
 内外からの使節を饗応する迎賓館で
 あったと想定されています。

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2024年4月 1日 (月)

“平群谷”の古墳めぐり(つづき)

 次に向うのは「西宮古墳」ですが、道中にある旧跡にも寄り道しながら、谷川沿いに歩きます。

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 「石床(いわとこ)神社旧社地」。原始の巨石信仰を伝えているそうで、本殿や拝殿は初めからなく、
鳥居と社務所だけがあり、崖に露頭している巨大な “陰石” が御神体。磐座(いわくら)信仰の古い形
を伝えるものだったそうですが、大正時代に集落の素戔嗚神社(現/石床神社)に合祀されています。

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 石仏が佇んでいる村なかの急な坂道を抜けて、高台に進みます。

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 その先に坐す現在の「石床神社」。境内には産土社の「消渇(しょうかち)神社」も祀られています。

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 「消渇神社」には、境内の小屋で自作した12個の “土団子” を供えて願掛けし、願いが叶ったら、
米粉の団子12個をお供えする習わしが伝わっています。病気平癒の霊験あらたかとかで、いまでも
土の団子を供える人があとを絶たないようです。土団子をその場で自作するのが何ともエエなぁ。

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         だいぶ 陽が傾いてきたころ、この日最後の「西宮古墳」に向かいます。

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 廿日山丘陵に広がる平群中央公園の一画にある「西宮古墳」は、三段式方形墳です。一辺36m
の正方形で、石室が墳丘外に露出した状態になっています。前庭部の敷石部で発掘されて須恵器の
高杯から、7世紀中期~後期の築造と推定されています。
 南向きに開口する横穴式石室を持ち、石室の石材は地元産のようですが、石室内部に収納されて
いた家形石棺は、兵庫県産の竜山石だそうです。
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 出入り自由で公園の一部になっています。疲れもあってか、“飽き”を感じてしまいました。

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  落日が長~い影を「西宮古墳」の墳丘
 につくっていました。さぁ、竜田川駅へ
 戻るとしましょう。よう歩きました。

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       (2023/12/10撮影)
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(平群町役場「ロマンの町へぐり」より抜粋)


2024年3月28日 (木)

潜入!平群谷の古墳石室

 大阪府と奈良県境の東側、生駒山脈と後生駒山脈の間を流れる龍田川に沿って走る近鉄生駒線
(生駒~王寺)を竜田川駅で降りると、奈良県生駒郡平群(へぐり)町西宮、“平群谷”への入口です。

 近鉄生駒線は、昭和39(1964)年まで「信貴生駒電鉄」でした。現在の京阪私市(きさいち)線も
同社が敷設しましたが、私市南側の堅固な山塊を前に、結局、生駒には繋がりませんでした。

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 今回は、“ちとせ奈良” が主催する てくてくツアーに参加して、平群谷の古墳石窟に、文字通り
潜入すると云うので、期待が膨らみます。近鉄竜田川駅前に集合、打合せののち、さぁ出発です。

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 まず最初に訪れたのは、「鵜土塚(うどつか)古墳」です。釣り池の筋向いの崖を登ります。

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 後円部墳頂からの光景。平群谷にギッシリの住宅群を遠望しつつ、石室のある南側へ降ります。

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 「烏土塚(うどつか)古墳」は、古墳時代の後期(6世紀中頃)の築造とされ、墳丘の全長60.5m、
高さ9m、平群谷最大の前方後円墳です。石室の全長が14.3mもあり、幅2.9mの玄室は長さ6m、
高さ4.5mもあって、この高さは、石舞台古墳に次ぐものだそうです。比較的近い二上山に産出す
る白色凝灰岩で出来た家形石棺が収められていました。

 この「烏土塚古墳」は、近畿の前方後円墳の最終期のものとされ、埴輪祭祀の終焉に近い時期に
もあたるようで、羨道前面の前庭部分で須恵器や巫女型埴輪などがまとまって出土したそうです。
即ちそこが埴輪祭祀の場となっていたものと考えられています。

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 平群谷には、古墳時代中期前半(5世紀後半)から飛鳥時代前半(7世紀前半)にかけて築造された
古墳が71基残されているらしい。それ以外にもその可能性がある隆起が32もあるそうです。
 被葬者のほとんどは、古代豪族の平群(へぐり)氏に関わるものらしく、中には、紀氏や上宮王家
の伝承に関わるものも想定されてはいるようですが、宮内庁の治定の対象外でなければ、石室に
まで “潜入” 出来るわけがないのですがね。

 この石組みの積み方を見上げていると、渡来人豪族 “秦氏”のものだと云う、京都/太秦(うずまさ)
にある「蛇塚古墳」の石積みに似ている感じがしました。 

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 次は「柿塚古墳」です。釣り池越しに「烏土塚古墳」を遠望しながら700mほど歩き、信貴山系
東麓の低い峠に向かいます。

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 「柿塚古墳」は、古墳時代後期(6世紀初頭)に築造された円墳です。未調査ですが、直径30mで、
横穴式の片袖式石室を持ち、長さ5.2m、幅3.2m、高さ3.2mの玄室のが構築されています。狭い
開口部が崖の右下に面しているため、先遣隊にビニールシートを敷いてもらって、一人ずつ石室内
に滑り降りるようにして、文字通り “潜入” するのです。戻れるんかチョッと心配でした。

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 狭い羨道部の先では、予想以上に高い空間が待っていました。先遣ガイドが誘導してくれます。

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 石組みの積み方がやや稚拙な感じです。先遣隊のライトに照らされているので、安心感がありま
すが、閉所に弱い人には、耐え難いかも知れない圧迫感が漂います。ここは未調査のままであるた
め、副葬品とか詳しいことは、分かっていないそうです。

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 振り返ると、半ば土砂に埋まったような羨道部が斜め上方向に見えました。これを戻らにゃなり
ません。仰向きにずり上がって、頭が出たら向きを変え、両手をついて這い上がる必要があります。
 開口部で待ち構えるガイドさんに、まずはカメラを受け取ってもらいました。

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 自分の時のは撮れないので、次の方の時の様子をのぞき込みました。やっぱり引っ張り上げて
もらわないと難しそうでしたね。

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 15人程いたので、結構な時間を要しましたが、無事 “生還” した皆さんの声が弾んでいました。

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 やれやれ、こんな古墳に入り込むなんて、これまで経験したことがありませんでしたよ。(つづく)

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2024年3月25日 (月)

再び「富雄丸山古墳」

 昨年の1月に、円墳の造出し部分で、国内最大の「蛇行剣(だこうけん)」と「盾形銅鏡」が出土
して脚光を浴びたばかりの「富雄丸山古墳」で、また、木棺を粘土で覆った「粘土槨(ねんどかく)」
が出土したと云うので、さっそく近鉄学園前駅からの若草台行き奈良交通バスで駆けつけました。

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 バス停から少し歩いた先の運動場で受付を済ませた横に、昨年の1月に発掘された237cmもの
蛇行剣や鼉龍文(だりゅうもん)盾形銅鏡の写真と実物大の模型?が展示されていました。

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 墳丘の案内板。直径105mの円墳に設えられた「造り出し」部分で今回、発掘されています。

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 発掘現場が狭く坂が急らしく、一方通行もあってか、20人ずつ区切って案内されていました。

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 今回の発掘現場は、ちょっと雰囲気が違ってました。工事現場のような “覆い屋” の中です。

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 “覆い屋” の中に入るや否や、やれ立ち止まるな!奥へ進め!と嵐のようなうるさいアナウンス。
そのくせ、発掘調査の経緯や成果と云った説明は皆無です。配られたパンフを読めと云うことか。

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 高野槙を加工した長さ5.6mの割竹形木棺には、杉の小口板と仕切り板があり、足許側の「副室」
の端っこに3枚重ねの青銅鏡が置かれていた由。他には足側に竪櫛(たてぐし)9点しかなく、この
時期の他の古墳に比べて、副葬品が少ないことが特徴だと云うことです。

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 木棺中央の主室、被葬者の頭部があったと思われる位置で、真っ赤な水銀朱が検出されています。

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 まあ、これだけでした。忙しない見学でしたので、もう一度、行列に並び直して、再見学しまし
たが、アナウンスが煩いだけでしたが、仕切りの杉板と青銅鏡をアップで撮りました。

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 諦めて、墳頂部へ登ってきました。今回の発掘調査には関係なくて、なあ~んもないのですが、
奈良市内を遠望できます。ここに説明員を配置してくれたらよかったのに。

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                   11:30の開店を待って、麻婆豆腐ランチをいただきました。
                    この「百楽」、かつては近鉄観光の経営でしたが、近鉄のグループ
                    再編により、同社は解散になりました。
                     大昔、BFの営業で、その電算室長さんにお世話になったことが
                   思い出されますよ。

2024年3月 7日 (木)

法隆寺 “若草伽藍の溝” 発掘

 法隆寺南端から飛鳥時代の “溝” が出土、「若草伽藍」の南端の可能性が高いと注目されます。
下の写真で、やや斜めに走っている “溝” が問題なんです。と云うのも、今回の発掘は、現法隆寺
のスグ南側で行われ、この一帯は、創建当時の建物である「若草伽藍」の跡と云われています。

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 “溝” の中からは、7世紀前半の瓦が大量に見つかり、文様の特徴から、「若草伽藍」の金堂や
塔のもののようです。日本書紀に、「若草伽藍」は西暦670年に焼失したとの記事があり、“溝”
の中からは、焼けた痕跡のある壁土もあったそうです。尤も、そうした遺物は発掘現場にはなく、
斑鳩町教育委員会の下で洗浄中だと云うことです。(代わりに写真が掲出されていました)

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 問題の “溝” は、正しくは東西方向に向いてなくて、北に対して 20度西に振れているのです。
この傾きが「若草伽藍」の中軸線に対して垂直関係だと云うのです。この “溝” は、幅2mあり、
長さ16mほどが確認されていて、その中で、瓦や焼けた壁土片が沢山見つかったそうです。 

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 法隆寺創建当初の建物とされる「若草伽藍」は、「四天王寺式伽藍配置」と想定されていて、
今回の発掘場所が塔の南側の伽藍の中軸線上にあるため、その南方地域にあたるそうです。
 また、この場所が宅地化されずにあったのは、「亥嶋社」と云う社が祀られ、聖徳太子ゆかりの
土地として顕彰されて来た場所だったからだと云うことです。

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 そして、たくさんの瓦や焼けた痕跡のある壁土が “溝” の中から発掘されたと云うことからして、
さらに、それが「若草伽藍」の中軸線に直交する形で確認されたことによって、現在の法隆寺が
再建されたものか、非再建のものかと云う論争の決着に有力な史料となるようです。

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 着いたのが14時過ぎだったので、晴天でもあり、方向によっては、立体感が出ませんな。

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 ところで、今回の現地説明会では、“iセンター” で受付、付設の資料館で出土品の展示を見学
したあとで、講堂で係の方からの解説を聞いてから、発掘調査の現場へ向かうと云うスタイルで
した。待ち時間も僅かで、スムースに見学することが出来て、手慣れた感がありました。

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 発掘現場は、法隆寺の南大門のスグ近くでした。“iセンター” 駐車場の一角には、ただの土盛り
だと思っていたのが古墳だったと云う「船塚古墳」がありました。なんと公衆トイレの並びです。

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Photo_20240307232801  JR法隆寺駅から法隆寺までは歩20分
 ですが、小型バスも20分毎にあります。

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 法隆寺参道に「平宗」の店発見、柿の葉寿司を買いました。  
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 【つぶやきPOST】
  ようやく、確定申告を済ませました。テレビを見てる
 と、大枚を手にしても、領収書もなし、納税もなしって
 エエかげんにせぇと思います。開き直るだけなんやね。


2024年2月15日 (木)

「坂本城址」発掘現場

 “幻の城” と云われる明智光秀の「坂本城」の石垣が発見されたと云う報道に接し、さっそく
出掛けてきました。我が家からは、東福寺駅で京阪からJRに乗り継ぎ、京都駅でJR湖西線に乗る
のが最安ルートです。所要90分ぐらいなので、小雨模様の朝 7:30に出発しました。

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 我が家からは、東福寺駅で京阪からJRに乗り継ぎ、京都駅に出て湖西線に乗ると、4駅目が
比叡山坂本駅です。駅前の「坂本 石積みの郷公園」を取り囲むように人の列が続いていました。
9:30から整理券の配布が始まり、11:30開始の第2回目説明会に入場できることになりましたが、
その間、2時間弱。寒い限りでした。(地図は駅前の案内板より抜粋/追記。クリックで拡大します)

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 駅前から発掘現場までは、徒歩20分との案内でしたが、入場時刻まで1時間以上もあるので、
寒さしのぎを兼ねて、途中の周辺をウロウロしていると、個人の敷地に“明智塚”がありました。
この地は、坂本城の場内推定地で、坂本城落城の際に光秀の脇差や宝器をうめた跡で、明智一族
の墓所であると伝えられているそうです。さすが明智の地元ですね。

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 また、脇道に入ったところで、路の両側に似たようなお社が並んでいました。酒井神社(右)と
両社(りょうじゃ)神社です。いずれも弘仁元(810)年の創建と古く,“オダイモク”と呼ばれる
餅の作り物と江戸時代から伝わる武者人形を飾り,五穀豊穣を願う祭りです。

 言い伝えでは、瀬田の唐橋に住む龍神への人身御供の身代わりとして餅(オダイモク)を供える
ようになったのだと伝承されているそうで、毎年1月6~8日に祭事があるそうです。

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 「川下り地蔵」両社川より下る石仏を祀った小堂の脇に、明治維新の際、日吉大社境内にあった
地蔵石仏が琵琶湖に流されたのを集めたらしく、子供の熱病治療、洪水鎮護などの祈願に霊験あら
たかと信仰されているそうです。「下る」も「流す」も、捨てられたの意味でしょうね、 

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 “マクド”に退避していましたが、入場時刻が近づいてきましたので、腰を上げました。住居表示
では、坂本でなく「阪本」と書くんですね。旧北国街道沿いには「坂本城址」の石柱もありました。
説明板によると、織田信長は明智光秀に命じて、浜坂本に“水城”を築かせています。ポルトガル人
宣教師がその城を「信長の安土城に次いで豪壮華麗な城だ」と賞賛しているとのことです。

 本能寺の変の後、一度焼失して再建された坂本城は、天正12(1586)年頃に大津城の築城に伴っ
て移築され、15年ほどで廃城となったので、詳細な史料がほとんど残されていません。
 昭和54(1979)年の発掘調査では、厚い焼土や建物の礎石が発見され、城址推定地となったそう
です。今回の発掘現場は、そこから5分と掛からない住宅地に残された田圃の中でした。

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 整理券によって、一回の入場は150人に限られています。足許は、泥土のフワフワした土質で、
ひっきりなしに湧水が染み出ていました。琵琶湖の水面より高いので、どこかに水源があるんで
しょうね。今回の発掘は、住宅開発のためのもので、ちょうど道路の予定地だったとのこと。

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 説明の担当者の声も、重大発見の興奮のためか、かなり上ずって聞こえていました。でも、住
宅開発のための発掘調査であったため、普通なら調査後に埋め戻してしまうことになるのが残念
との思いが強調されていました。後日のTVインタビューでは、滋賀県知事が保存の検討に言及さ
れていましたが、どうなることでしょうか。

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 発掘現場に設けられた臨時の展示場には、出土遺物の数々が展示されていました。茶碗の欠片
だけでなく、箸も原型のまま出土したのは、水気の多い泥土の中だったからだそうです。

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 瓦の破片のほか、櫂()かい)も原型を保って発見されていました。

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 破片ばかりなのは、大津城への移築に伴って破棄されたものだと云うことかも知れません。

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 立ち去る前に、今一度、発掘現場の全体を振り返ってみました。まさに住宅地の中ですね。

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 そして、以前、琵琶湖の渇水期に判明した「坂本城址」の湖岸の石垣を見に行ってみました。
発掘現場から湖岸方向へ5分ほどの葦原の中でした。なんか風情と云うか侘しさを感じますねぇ。

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2024年2月 1日 (木)

神戸の「海軍操練所跡」

 ずいぶん冷えこんで風の強かった1月13日、神戸市のイベントに申し込んで「海軍操練所跡」の
発掘調査現地説明会に行ってきました。JR三ノ宮駅から歩10分とありましたが、風を避けて適当
に地下道を南下して行ったら、駐車場に入り込んでしまったので、もう少し掛かりましたがね。

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 「海軍操練所」は、勝海舟が提起し、幕末の1864(元時元)年に幕府が開設した海軍士官の養成
施設で、坂本龍馬や陸奥宗光らも学んだそうです。その中には、倒幕を狙う浪人も居て、反幕府的
とみなされたため、僅か1年で閉鎖されてしまったと云うことです。
 しかし、その操練所跡を土台にして港湾施設の建設が進み、1868(慶応4)年に開港、神戸港の礎
となったと云われています。

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 これまで、操練所跡の位置はよく分かっていなかったそうですが、開発に伴う工事での発掘に
よって、石組みの防波堤などが見つかったものです。「日本の近代化を牽引してきた施設であり、
貴重な発見」と説明する神戸市文化スポーツ局の担当者の声が上ずっていました。

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 北側の防波堤の下層から、南西方向に続く別な防波堤が検出されていて、石の積み方や表面の
調整痕などの特徴から、神戸港開港以前の幕末期に遡る石積みと考えられるそうです。そこから、
幕府による海防強化の目的で勝海舟が建設を進めた「海軍操練所」の遺構と考えられています。

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 今回の調査では、幕末期に築造した防波堤を利用して、その上に新たな防波堤を築き、港の機
能を拡充する様子がうかがえます。こうした幕末から明治期の築港の遺構が重層的に発見された
のは、初めてのことだそうです。港を中心に都市形成されてきた神戸市の原点と云えそうです。

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 今回の発掘現場は、旧生田川の河口で、明治初期の神戸港開港時に“第一波止場”と称されたと
ころ。北と南の2本の防波堤とその間に築かれた“信号所”の遺構も見つかり、旧生田川によって
形成された砂嘴の上に築かれたものだそうです。

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 発掘現場周辺には、防波堤に使用されていた石材(花崗岩の間知石)が展示されていました。

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 発掘現場は、阪神高速道の京橋ランプ近くです。すぐ北側には、大きなイカリのモニュメントと
「海軍操練所址」の古びた石碑がありました。案外、正確に位置情報が伝わっていたんですね。

P1490652

    (参考) 明治中期の“第一波止場” の様子。説明会のパンフより抜粋
   _3a

     (地図はクリックで拡大します)
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 さすがミナト神戸、電話Boxもシャレていました。でも、氷雨も降っていて寒すぎましたよ。

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2023年11月27日 (月)

「高井田山古墳」と歴史資料館

 平成2(1990)~3年の発掘調査まで、円墳だとしか分かっていなかった「高井田山古墳」は、
高井田横穴公園一番の高所にあります。古いタイプの横穴式石室を持ち、多数の副葬品が出土
したそうですが、5世紀後半に造られたものらしく、6世紀中ごろ~7世紀前半と云われる高井田
横穴が造られた時期とは、100年以上古いと云うことになります。(下図は史跡案内パンフより抜粋)  

_3_20231124231001
P1410571

 自然の地形を削って形を整え、中央に1mの墓坑を掘って、横穴式石室の下半分を積み上げ、
次に上半分を積み上げると同時に古墳の盛土を行って、円墳としての形を整えたものらしい。
透明だった覆い屋根も、汚れて見辛い状態ですが、出土品のレプリカも配置されていました。

P1410574

 高井田山古墳への途中で脇道に逸れた先に「柏原市立歴史資料館」があり、高井田山古墳や
高井田横穴の出土品、大和川付替え関連など、周辺の歴史史料が展示されていました。

P1410373(この楕円筒埴輪は、川向いの松岳山古墳のもの)

P1410398

 高井田山古墳の造り方が分かる断面の模型。先にこれを見てから、遺跡に上るのがよさそう。

P1410395

 高井田山古墳の発掘当時の現場写真。遺跡の現状よりも分かりやすいかな。

P1410387

 石室内からは、須恵器の高坏と “はそう” (水差し)も出土。焼成が甘く、淡灰色で揃っている。
これらの須恵器は、木棺を収めたのち、閉塞石で閉塞する前に並べられたものとされています。

P1410393

 横穴式石室内の木棺は朽ちてありませんが、木棺に使用されていた鉄釘が残されています。
近くには、この時代の国内最大級の鍛冶遺跡と云われる大県(おおがた)遺跡もあって、高井田
山古墳の埋葬者は、百済から渡来した技術者集団の王族であろうと推測されています。

P1410394

 これ、火熨斗(ひのし)と云って、火皿に炭を入れてアイロンのように使ったらしい。青銅製で、
国内2例目の出土品だそうです。

P1410389

 並列の木棺の一方からは、181個のガラス玉がまとまって出土、紐に通されていたものらしい。
両方の棺から、それぞれ冑(かぶと)と短甲が出土、横矧板鋲留衝角付冑(よこはぎいたびようどめ
しょうかくつきかぶと)と呼ばれ、細長い帯のような鉄板を重ねて小さな鋲で留められています。

 半人半獣像を伴う直径20.6cmの「神人龍虎画像鏡」は、神仙思想を表現したものと云う。中国
の鏡から型を起こして造った“同型鏡群”で、京都、奈良、福岡や岡山でも発掘されているそうです。
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                (上の写真3点は、公開当日のクイズでもらった絵葉書より借用)


Img_20230520_115727 にほんブログ村 旅行ブログ ぶらり旅へ     この日、午後からの所用のため、特別
             公開の最後の方は、少し端折って退散し        
 にほんブログ村  ました。でも、「高井田横穴クイズ」には
             全問正解し、絵葉書セットを貰いました。
              昼は、天王寺駅でコロッケうどんセット。

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 (2023/5/20訪問)

 【つぶやき】 日本ブログ村から「ブログみる」についての紹介
  コメントを募るメールが届きました。何んのことか、よう分か
  らないのですが、とりあえず、「ブログみる」をスマホにダウン
  ロードしました。

   ココログ広場が終了したこともあり、見てくれる人が増える
  ことを期待して、取り組んでみますか。ボチボチ・・・。                        

2023年11月23日 (木)

「高井田横穴群」特別公開 ②

 高井田横穴の第3支群12号墳の内部に入っています。玄室に置かれた石棺をのぞき込んでいる
ところです。狭く暗いので、ライトが不可欠で、湿度も高く、少し不気味です。

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 玄室の壁面には、湧水を受け止める樋のような窪みが巡らせてあるように思いました。

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 隣の10号墳の羨道の天井には、槍、戈(か)、弓や矢と思われる線刻壁画が描かれています。

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 ここは、比較的広いので、10人ぐらい単位で入って説明を聞きました。

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 第3支群の10~12号墳は、崖の斜面に隣合わせに並んでいました。

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 高井田横穴公園内は、通路、銘板など、保存に向けた整備がシッカリしていますね。

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 第2支群12号墳の羨道側壁や玄室側壁には、鳥や船で航海するような絵が描かれています。
これらは、死後、人の魂が鳥になってあの世に行くとか、船であの世へ運ぶと云った思想に
基づくものと考えられているそうです。

P1410521a
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 “史跡”とは云え、「高井田横穴群」は、160ものお墓群です。なんだか、滅入ってきました。
それでも、2時間近く、雨上がりの山路を巡って、特徴的な横穴の数々の中に入ってきました。
この続きは、高井田横穴公園内にある「柏原市立歴史資料館」と「高井田山古墳」の見学です。

_1← 高井田横穴群の線刻壁画のかずかず
  見学時の配布資料より抜粋(クリックで拡大)

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 【つぶやき】 地元の神社でも、七五三詣りの
 ご祈祷をしていて、裏方のお手伝いをしました。
  必ず一組ごとに神職が祝詞をあげ、御神楽も
 奉納されるので、丁寧なご祈祷です。千歳飴の
 セットと風船を貰った幼い子達の笑顔が何とも
 云えませんね。
  


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