歴史・遺跡・現説

2023年11月27日 (月)

「高井田山古墳」と歴史資料館

 平成2(1990)~3年の発掘調査まで、円墳だとしか分かっていなかった「高井田山古墳」は、
高井田横穴公園一番の高所にあります。古いタイプの横穴式石室を持ち、多数の副葬品が出土
したそうですが、5世紀後半に造られたものらしく、6世紀中ごろ~7世紀前半と云われる高井田
横穴が造られた時期とは、100年以上古いと云うことになります。(下図は史跡案内パンフより抜粋)  

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P1410571

 自然の地形を削って形を整え、中央に1mの墓坑を掘って、横穴式石室の下半分を積み上げ、
次に上半分を積み上げると同時に古墳の盛土を行って、円墳としての形を整えたものらしい。
透明だった覆い屋根も、汚れて見辛い状態ですが、出土品のレプリカも配置されていました。

P1410574

 高井田山古墳への途中で脇道に逸れた先に「柏原市立歴史資料館」があり、高井田山古墳や
高井田横穴の出土品、大和川付替え関連など、周辺の歴史史料が展示されていました。

P1410373(この楕円筒埴輪は、川向いの松岳山古墳のもの)

P1410398

 高井田山古墳の造り方が分かる断面の模型。先にこれを見てから、遺跡に上るのがよさそう。

P1410395

 高井田山古墳の発掘当時の現場写真。遺跡の現状よりも分かりやすいかな。

P1410387

 石室内からは、須恵器の高坏と “はそう” (水差し)も出土。焼成が甘く、淡灰色で揃っている。
これらの須恵器は、木棺を収めたのち、閉塞石で閉塞する前に並べられたものとされています。

P1410393

 横穴式石室内の木棺は朽ちてありませんが、木棺に使用されていた鉄釘が残されています。
近くには、この時代の国内最大級の鍛冶遺跡と云われる大県(おおがた)遺跡もあって、高井田
山古墳の埋葬者は、百済から渡来した技術者集団の王族であろうと推測されています。

P1410394

 これ、火熨斗(ひのし)と云って、火皿に炭を入れてアイロンのように使ったらしい。青銅製で、
国内2例目の出土品だそうです。

P1410389

 並列の木棺の一方からは、181個のガラス玉がまとまって出土、紐に通されていたものらしい。
両方の棺から、それぞれ冑(かぶと)と短甲が出土、横矧板鋲留衝角付冑(よこはぎいたびようどめ
しょうかくつきかぶと)と呼ばれ、細長い帯のような鉄板を重ねて小さな鋲で留められています。

 半人半獣像を伴う直径20.6cmの「神人龍虎画像鏡」は、神仙思想を表現したものと云う。中国
の鏡から型を起こして造った“同型鏡群”で、京都、奈良、福岡や岡山でも発掘されているそうです。
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                (上の写真3点は、公開当日のクイズでもらった絵葉書より借用)


Img_20230520_115727 にほんブログ村 旅行ブログ ぶらり旅へ     この日、午後からの所用のため、特別
             公開の最後の方は、少し端折って退散し        
 にほんブログ村  ました。でも、「高井田横穴クイズ」には
             全問正解し、絵葉書セットを貰いました。
              昼は、天王寺駅でコロッケうどんセット。

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 (2023/5/20訪問)

 【つぶやき】 日本ブログ村から「ブログみる」についての紹介
  コメントを募るメールが届きました。何んのことか、よう分か
  らないのですが、とりあえず、「ブログみる」をスマホにダウン
  ロードしました。

   ココログ広場が終了したこともあり、見てくれる人が増える
  ことを期待して、取り組んでみますか。ボチボチ・・・。                        

2023年11月23日 (木)

「高井田横穴群」特別公開 ②

 高井田横穴の第3支群12号墳の内部に入っています。玄室に置かれた石棺をのぞき込んでいる
ところです。狭く暗いので、ライトが不可欠で、湿度も高く、少し不気味です。

P1410447

 玄室の壁面には、湧水を受け止める樋のような窪みが巡らせてあるように思いました。

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 隣の10号墳の羨道の天井には、槍、戈(か)、弓や矢と思われる線刻壁画が描かれています。

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 ここは、比較的広いので、10人ぐらい単位で入って説明を聞きました。

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 第3支群の10~12号墳は、崖の斜面に隣合わせに並んでいました。

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 高井田横穴公園内は、通路、銘板など、保存に向けた整備がシッカリしていますね。

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 第2支群12号墳の羨道側壁や玄室側壁には、鳥や船で航海するような絵が描かれています。
これらは、死後、人の魂が鳥になってあの世に行くとか、船であの世へ運ぶと云った思想に
基づくものと考えられているそうです。

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P1410531

 “史跡”とは云え、「高井田横穴群」は、160ものお墓群です。なんだか、滅入ってきました。
それでも、2時間近く、雨上がりの山路を巡って、特徴的な横穴の数々の中に入ってきました。
この続きは、高井田横穴公園内にある「柏原市立歴史資料館」と「高井田山古墳」の見学です。

_1← 高井田横穴群の線刻壁画のかずかず
  見学時の配布資料より抜粋(クリックで拡大)

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 【つぶやき】 地元の神社でも、七五三詣りの
 ご祈祷をしていて、裏方のお手伝いをしました。
  必ず一組ごとに神職が祝詞をあげ、御神楽も
 奉納されるので、丁寧なご祈祷です。千歳飴の
 セットと風船を貰った幼い子達の笑顔が何とも
 云えませんね。
  


2023年11月20日 (月)

「高井田横穴群」特別公開

 JR大和路線で奈良方面に向かうと、大阪府最後の駅が「河内堅上(かたかみ)」で、その1つ
手前が「高井田」です。そこから13.5kmも離れた東大阪市にも、大阪メトロの「高井田」駅が
あって、戸惑う人もいるようです。
 いずれの「高井田」も、地名からつけられた駅名だそうで、河内湖と呼ばれた古代湖が、川が
運ぶ土砂で次第に陸地化していったものの、大部分が低湿地であり、その一部の高所に「高井田」
の地名が定着したと考えられています。なので、高井田の町域は、細長く続いている感じです。

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 JR高井田駅から歩3分、「高井田横穴」の公開は、年2回開催されていて、先着順にグループ
単位で案内してくれます。この日は、昨夜来の雨が少し残っていて、足許がよくなかったです。

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 国の史跡に指定されている「高井田横穴」は、岩盤に密集して掘り込まれた洞窟のお墓群です。
現在、162基の横穴が確認されているそうですが、南に少し離れた二上山の噴火による火山灰が
固まってできた凝灰岩の比較的柔らかい岩盤に掘られています。

 この日は、普段は施錠されている横穴にも、ほぼ自由に出入り出来たりするのです。

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 「横穴(よこあな)」は、下図のような手法で掘られるそうです。(配布資料より抜粋/追記) 

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 二上山は、この地の南方にそびえる死火山で、千数百年前までは、活発に噴火していたらしい。
狭いので、横穴の前で説明を聞いてから入ります。ライトがないと見えないところが多いです。

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  この線刻模様は、亀を描いたもののようですが、花のようにも見えました。

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 「高井田横穴」で一番有名な線刻壁画が第3支郡5号墳のものです。少し高いところにあって、
覗けますが、入ることは出来ないため、階段下にレプリカが用意されていました。

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 ちょうど、ゴンドラようの船に乗る人物が描かれており、死者の魂をあの世に運ぶ思想に基づ
くものと考えられています。他にも、帆や舵を表現した船が線刻されている例もあるそうです。

P1410434

 この先では、急坂を降って谷に向かう途中に、いくつもの横穴が穿たれていました。

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P1410443

 これらの横穴は、5世紀ごろの百済からの渡来豪族の古墳と云われる「高井田山古墳」に接近
した位置にありますが、横穴群は、6世紀中ごろのものと云われ、100年ほどのギャップがある
そうです。でも線刻壁画の内容や、この時代の全国最大級の鍛冶遺跡が近くにあることから、
やはり、渡来系の技能集団一族のお墓だったのではないかと云うことでした。(続きます)

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 (左図は、柏原市立歴史資料館のパンフより抜粋)

2023年11月13日 (月)

古い社殿の修復現場見学 ③

 さて、階段を降りて、基壇周りです。社殿は、三間社流造(さんげんしゃながれづくり)ですが、
正面を切石積み、側背面を野面(のづら)石積みとする基壇上に建てられています。この基壇が歪
んでしまっていたので、石を積み直して、基壇面を平らに修復することから始まったとのこと。

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 正面は切石積みですが、側背面は野面石積みになっているのが特徴とのこと。

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 ところが、石垣裏の上面には、一部、コンクリートも使われていました。最終的には、土を
被せるんでしょうね。基壇の水平を強固にしないと、また建物の歪みに繋がってしまいます。

P1450979

  修復前、一旦、建物を撤去した時の写真が展示されていました。ここから直したんかぁ。

   P1450987

 400年前の木材は、ボロボロの箇所もありました。あるいは、室町期の前身建物の古材かも
知れません。触れるとヒラヒラと崩れてしまうのではないかと思いました。

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 でも、シッカリと残っている古材もありますが、部分的に古材と新材を組合わせるのは至難の
技なんでしょうね。中には、再使用はしないで、保存材として残すものもあるようです。

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 年代が書き残された古材を生かして、新しい材を埋めるようにつないでありました。

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 覆い屋の外に出て、往路に見上げた参道を見降ろしてみました。ヒェ~と声が出る急階段です。

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P1450782a  急階段を上ったところに「狩尾社」本殿が
 あるのですが、今は覆い屋に囲まれています。  
  今回の工事には、2.4億の費用が見込まれ
 ているそうで、令和6(2024)年度の修理完了
 の予定ですが、もう1年は掛かるらしい。
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 【つぶやきポスト】手術で血液サラサラ薬の
 服用を中止したついでに、親不知の抜歯もし
 てきました。2本あるけど、片方だけです。
 でないと、ご飯が食べられなくなりますがな。

  抜歯自体は、思ってたほど苦痛ではなかっ
 たのですが、残る1本をいつにしますかね。  

  

2023年11月 9日 (木)

古い社殿の修復現場見学 ②

 石清水八幡宮摂社「狩尾(とがのお)社本殿」の修復工事ですが、解体中の調査から、軸部の
大部分に建立時よりも古い部材が用いられていて、室町時代に建築された同規模の前身建物の
部材を用いて建て直されていることが判明したとのこと。八幡神が男山に勧請されたのに伴い、
男山の地主神が場所を移して祀られたと云う伝承が裏付けられた感じです。

 また、塗装は、現状の丹塗の下から古い彩色の痕跡が見つかり、身舎(もや)柱の頂部や軒桁
などに牡丹丹唐草や波が描かれていた時代があったことも判明したそうです。

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 肉眼では大変に見えにくいと云いながら、波模様の痕跡が見つかっているとのことです。

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 似た材で継いだりして、できるだけ古い材を生かしつつ、基壇の不等沈下で歪みが生じた建物
を修補しなければならないのが苦労している点だそうです。

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 上屋を触れられるぐらいの距離で見られると云うのは、稀有なことですね。大寺院の修復など
では、ここまでの接近は困難でしょう。今回の現場見学は小人数で、細かな工夫の解説や質疑
応答もあって、楽しめるガイドツアーでした。このあと、階下に降りて、基壇回りの見学です。

P1450880  今回修復した箇所には「令和5年度修補」の
 刻印が施されていました。焼き印でしょう。

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【つぶやきポスト】 術後の痛みは、かなりマシになり、起き上がり時の要領も体得してきました。
まあ、何とか鎮痛剤のお世話にならんとこ、と頑張っています。むしろ、おなかの傷跡が痛痒い感じ
になってきました。傷跡に衣類が擦れないよう、ベルトの位置を下げ気味です。(なんたろう) 

2023年11月 6日 (月)

古い社殿の修復現場見学

 宇治川・桂川・木津川の三川が合流する地に近い、京都府八幡市の石清水八幡宮は、源氏の
守護神として中・近世を通じて武家の崇敬をうけ、織田信長・豊臣秀吉・徳川家光らによって社殿
の修理・造り替えが続けられてきているそうです。

 その石清水八幡宮本社の西方1kmの飛び地に鎮座する摂社「狩尾(とがのお)社本殿」でも、
いま、大規模な解体修理・修復の作業が進められていて、その現場公開に行ってきました。

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                             (「狩尾社本殿」への急な参道階段は、通行止めでした)

 京阪電車の橋本駅から住宅地内の急坂を歩いて “峠” に達すると、再び下った先の小山の上に
覆い屋が見えました。あそこまで行くんかいな、と思わず立ち止まってしまいました。 

P1460074

 でも、通行止めの参道階段を迂回して「狩尾社」に近づくと、まぁ、凄い光景が広がります。

P1460067

 覆屋の前に到着。集合時間になると、受付でヘルメットを被せてもらってから、抽選に当たった
15人のガイドツアーがスタートです。まずは、上屋の現場への仮設階段を上ります。

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 八幡神が男山に勧請されたときに、男山の地主神が場所を移して祀られたのが「狩尾社」だと
伝わっています。現在の本殿は、お亀の方(徳川家康の側室)が本願人となって、慶長6(1601)年
に建てられたもので、石清水八幡宮に現存する社殿としては、最古のものだそうです。

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 基壇の石積みに孕み崩落が生じ、地盤面が不等沈下して、建物全体に著しい歪みが生じていた
んだそうです。今回の修理では、建物を解体するとともに、基壇の石積みをも解体して組み直す
と云う根本的な修理を行っている由。今年度は、木部を組み立てて、檜皮葺きの葺き直しをする
そうですが、蟇股細部の彫刻などは、原寸大で詳細に模写する作業も行われていました。

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Ea410e0000002sp5d  今回の現場公開は、京都府教育委員会の
 主催によるもので、抽選ですが無料でした。
 (左図は観光ガイド大山崎・八幡より抜粋/追記)  

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【つぶやきポスト】 これを書いているのは、鼠径ヘルニアの手術を受けて退院してきた翌日です。
腹腔に負担を掛けたらアカンと云われてますが、寝起きなど姿勢を変えるときが難儀です。痛みは
鎮痛剤のお陰もあって大したことないし、食事も普通ですが、咳をすると響くのがかないません。

 しばらくは、少し前に取材しておいた記事が続きますが、ご寛容ください。
つい今しがた、阪神タイガースの “日本一” が決まりました。嬉しかるかるです。(なんたろう)

2023年9月25日 (月)

探索、「東いもあらい」 ②

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 堤防上に細長く連なる「東一口(ひがしいもあらい)」集落の中ほどに、壮大な長屋門を構え
る旧山田家住宅は、江戸時代に周辺の御牧郷13ヶ村を取り仕切った大庄屋で、巨椋(おぐら)池
漁業の元締めでした。「大池」とも呼ばれた巨椋池は、幾多の変遷を経て、昭和16(1941)年に
国内初の国営干拓事業が完成、634haもの農地に姿を変えましたが、山田家住宅は、大庄屋の
格式と巨椋池漁業の面影を残すものとして、国登録有形文化財に指定されています。

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 宇治川との間に太閤堤などを築いて分離した結果、巨椋池に流入する水が減り、水質の悪化
が進行していったそうです。もともと平均水深が1m未満と云うこともあって、干拓されること
が決まったでしょう。干拓後も、上流に天ケ瀬ダムが完成するまでは、宇治川の増水や堤防の
決壊があって、元の巨椋池が再現されたこともあり、氾濫原としての宿命から逃れるために、
大変な労力が投じられてきたと云うことです。(下の地図は旧山田家住宅の展示より)

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 巨椋池の魚介類は大変に豊富だったそうで、モンドリと云う仕掛けや投網で面白いほど獲れた
そうです。それらに用いた漁具も、資料室に展示されていました。

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 少し崩れ掛かっていましたが、庭の築山に上がると、伏見桃山城の姿も遠望できました。

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 この旧山田家住宅は旧堤防上に建てられているのですが、築塀越しに下を見ると、真正面に
「大池神社」の鳥居が望めます。恐らく、干拓後に移されたものでしょう。

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 やはり、巨椋池の堤防上に成立していた「東一口」の集落は土地が狭く、かつての舟屋との
間には、急な階段が設けられていたんでしょう。今も、アチコチに遺構を見ることができます。

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 次回は、現在の排水施設を巡ります。
 
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2023年9月21日 (木)

探索、東一口(ひがしいもあらい)

 “まいまい京都”のてくてくツアーに参加するため、京阪電車中書島駅から近鉄大久保駅行の
京都京阪バスに乗ると、京阪国道(1号線)をぶっ飛ばして15分ほどで「東いもあらい」停です。
 日曜の朝9時前なのに、ツアーの人以外でギッシリ満員でビックリ。ここが集合場所です。

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 この辺の国道は、原則横断出来ないので、迂回して半地下のトンネルをくぐらねばなりません。

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 ここ、東一口(ひがしいもあらい)の集落は、70年ほど前まで、広大な巨椋池(おぐらいけ)の
出口に近い部分の堤防上に開けた特権的漁師集落でした。東西4km、南北3km、周囲16kmに
も及ぶ巨椋池は、京都盆地南の最低地であり、宇治川に近接するとともに、桂川、木津川との
合流点にも近く、大水のときの“氾濫原”として、洪水の常習地帯だったそうです。

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 秀吉の時代、伏見桃山城の築城に際し、細かな河道を分流していた宇治川と巨椋池を分離す
る「太閤堤」などが築かれました。伏見と大坂を結ぶ水運の道も開かれ、「太閤堤」には京と
奈良を結ぶ大和街道も造られています。しかし、宇治川が分離されたとは云え、増水時には、
甚大な被害が繰り返され、江戸時代初期には、木津川の付け替えも行われたそうです。

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 干拓された巨椋池は、現在は広大な耕地になっていて、“京野菜”の栽培も盛んなようですが、
畑の先に見える家屋は、一見、高床式になっていて、その奥の建物は、同じ2階建てでも背が
高くなっているようです。つまり、手前の建物は、旧堤防の手前にあり、奥の建物は堤防上に
あるという訳です。高床式に見える建物の多くは、かつては“舟屋”であったとのことです。

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 東一口の集落は、旧巨椋池の堤防上に細長く連なっています。また、堤防上の土地が少なか
ったゆえでしょう、隣家との狭い隙間に、水路から上がるための細い階段が設けられています。
なので、いまも運用されている排水路(前川)からは、かなりの高さを上らなければなりません。
 なにせ、埋め立てではないので、干拓された土地は、低いままなんですね。

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 東一口が特権的漁師集落だったからでしょう、堤防上の家屋は、重厚重層な屋根が目立ちます。

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 藏の造りは、石組みの土台が三段になっている北河内の“段蔵”と異なり、上屋が段になって
いました。

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 たまたま、リノベーション工事が進んでいました。手前にあった平屋は、“舟屋”だったかも。

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 東一口で一番の見学ポイントである国登録有形文化財「山田家住宅」の堤防下の道路には、
宇治川堤防が決壊した場合の水位を示す標識がありました。矢印の位置の推定浸水深3.9m。

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 やはり細い階段を上らねばなりませんが、かつては、左手前が船着き場であったようです。

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 東一口は、昭和8(1933)年に巨椋池干拓工事が始まるまで、漁(すなどり)を業としており、
後鳥羽上皇より賜った広大な漁業権の総帥として旧山田家は、格式の高い存在であった由。

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 なにせ広大だった巨椋池の跡です。東一口は、その一部に過ぎませんが、まだまだ続きます。 

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2023年9月 7日 (木)

八尾の「由義寺の塔跡」発掘調査

 旧聞ですが、大阪府八尾市の「史跡 由義寺(ゆげでら)跡」の第5次発掘調査の現地説明会
が6月24日にありました。場所は、JR大和路線の志紀駅近くの “外環(そとかん)” 沿いです。

 称徳天皇(女帝)は、天平神護3(769)年、道鏡の出身地である弓削(ゆげ)の地に造営を進め
ていた離宮 「由義宮(ゆげのみや)」を平城京の西京とし、そのシンボルとなる「由義寺の塔」
の建設に関わる人々に位階を与えたそうです。西京の範囲は、今の八尾市を中心に、東大阪市
の一部をも含む広大なものでしたが、天皇が亡くなると廃止され、忘れられてしまいました。

 平成28(2016)年から始まった区画整理事業に伴う発掘調査で、一辺が21mの塔基壇を発見、
東大寺などに次ぐ規模であることから、「由義寺」の七重の塔の基壇と推定されています。

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 今回の発掘調査では、凝灰岩の破片を含んだ溝が基壇の四方で確認され、基壇の断割り調査
で下層基壇も確認されたそうです。つまり、もとあった小さめの塔基壇を壊すかして、そこに
より大きな塔基壇を設けたと云うことになります。必然的に大塔を建てたと云うことですね。

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 下層基壇の下部では、「堀込地業」の痕跡が発見されていました。これ、建物の基礎となる
地面を掘り下げ、内部を突き固めながら埋め戻す“地盤改良工事”ですね。湧水が多いこの場所
で、建物の地盤沈下を防ぐための土木工事の痕跡だそうです。この堀込地業の規模から、下層
にあったのは一辺が17mの塔基壇で、全国の国分寺と同じ規模のようです。

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 下層基壇の構築時期は、出土した平瓦から奈良時代中期らしく、それを活かしつつ、その
上面に0.5mほど整地して、元の1.3倍の大きさの塔が構築された模様が推定されます。こう
した状況から、「由義寺」の前身である「弓削寺」が「由義宮/西京」の造営にともなって、
国家の寺院に相応しい規模の大寺院に造り替えられたと考えられるとのこと。

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 臨時の説明板も設置され、なかなかに充実した現地説明会でしたが、弓削の道鏡に関連した
ややこしい話しには触れられていませんでしたな。

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 コンパクトな発掘現場でしたが、駅から近い郊外住宅地の一画と云うこともあってか、割と
若い見学者の列が多かったようです。
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2023年8月 3日 (木)

大和川分水築留掛かり

 付け替え(川違え)前の旧大和川の河床に造られた灌漑(かんがい)用水路が長瀬川と玉串川です。
今度は、「築留三番樋(つきどめさんばんひ)」からの流れに沿って、下ってみることにしました。
三番樋は、新大和橋と近鉄道明寺線の大和川橋梁との間に取水口がありました。ここも、はじめ
は、一旦築いた付け替え堤防(築留)を切り崩して、土手や木材で工作したんだそうです。

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 煉瓦造の築留二番樋に比べ三番樋は、かなり簡素な造りに思えます。ここも二番樋に続いて
大和川切替えの翌年、宝永2(1705)年に設けられたそうです。切替後にできた新田への農業用
水のために、渇水期の大和川では半分近い流水を取り込む必要があったとのことです。

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 三番樋の可愛らしいモニュメントがありましたが、西日を受ける説明板は劣化して真っ白。

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 柏原市上市の水路沿いで見た現役の郵便ポスト。赤と云うよりさび色に近いオレンジでした。
なんとも年季が入っていて、痛々しくも頑張ってる姿に頭が下がります。

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 二番樋からの水と三番樋からの水が合流するところ、落合と云い、ここから先は、川幅が10間
(18m)あるところから「十間井路(いじ)」と呼ばれます。この先の二俣(ふたまた)で西用水井路
(長瀬川)と東用水井路(玉串川)に分流していました。

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 二つの井路川が合流した先で、JR大和路線の線路下をくぐります。このあたりの旧大和川は、
川幅が200mもあったとのことなので、この辺は、旧河道の中だったんでしょうね。


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 上市老人憩いの家の近くで小さめのダンジリが休憩中でした。傍らには「築留地蔵尊」が祀ら
れ、“築留(つきどめ)”と云う古い地名の扁額が掲げられていました。

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 “十間水路”となった先は「長瀬川」です。「久宝寺川」とも呼ばれますが、旧大和川の本流と
云うことです。面々と水の管理を担ってきた、旧75村からなる「築留樋組」による維持管理が
現在も「築留土地改良区」によって継承されてきているようです。

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 大和川の付け替え工事は、川下となる堺側から進められ、ほぼ、川底を掘らずに堤防を築い
ていき、最後に旧流路の方に堤防を築いて締め切った(築留)ので、僅か8ヶ月と云う短期間で
竣工したんだそうです。

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 柏原(かしわら)駅前近くの長瀬川沿いには、“アクアロード柏原”と名付けられた沿道が整備さ
れていました。大和川付替えの歴史と、今に続く非農家を含む活動も大和川分水築留掛かり」
の一環として、“世界かんがい施設遺産” の評価を受けたんだそうです。

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     左図の右下あたりが大和川の付け替え
 地点「築留」です。その先で、長瀬川と
 玉串川が分岐するのが、今も維持されて
 いる「二俣分水点」です。
  現在、長瀬川も玉串川も、その先では、
 第2寝屋川から寝屋川を経て大川(旧淀川)
 に注いでいます。  
                        

  鴻池新田会所での見聞で興味をそそら
 れた大和川の付け替えとその跡地の様子
 を2回に分けて見てきました。暑かった。


(八尾市役所HP/旧大和川を復元より引用/加筆) クリックすると拡大します。        
                  

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