大阪「西淡路」の歴史を歩く ②
大阪市設「国次(くにつぐ)霊園」をかすめて、次に向かったのは、「高射砲台跡」でしたが、
既に解体されて、更地(道路予定地?)になっていました。大阪市内の防空を目的に、昭和20
(1945)年までに6基建設され、令和6(2024)年まで、その指揮所の遺構が残っていたそうな。
「西淡路」は、昭和33(1958)年まで「国次町」と云ってました。戦乱の京から移り住んで、さっ
きの「須賀神社」を一族の鎮守として創建した刀工、来国次(らい くにつぐ)に由来します。

東海道新幹線の高架の近くに戻ると、「中島大水道碑」と「新太郎松樋の碑」がありました。
それは、江戸時代前期の延宝6(1678)年、摂津国 北中島地域(東淀川区・淀川区・西淀川区)
22ヶ村の農民らが、悪水(下水)と滞留水を海に流すために、自力で開いた一大排水路です。
このあたりは、淀川・神崎川・中津川に囲まれた
低湿地で、古代から水害に悩まされ、悪水抜きの
大水道はぜひとも必要であった。村々は団結して
幕府負担による「公儀普請」を嘆願したが叶わず、
「百姓普請」を前提とした開削が許可された。
しかし、延宝年間の悪水による不作に苦しんで
いたことから、「せめて幾ばくかの補助を」と願い
でたところ、幕府はその許可を知り消してしまった。
庄屋たちは、資金約2,000両を募り、この付近か
ら此花区伝法5まで、幅平均22m、全長9.5kmもの
大水路を僅か50日で完成させたと云う。
許可を得ずに工事を強行したことから出頭を命じ
られた庄屋3人が江戸に向って抗議の自決をした
のち、幕府も補助金を出し、2年かけて中島大水道
を完成させた由。この大水路は明治32(1899)年の
淀川改修まで立派に機能し続けたそうです。
(左図は、西淀川区HPより借用)



この辺りでは、東海道新幹線が「中島大水道」の跡をなぞっていて、「新太郎松樋」が残されて
いるあたりが、その出発点であったようです。 
「永春寺」は、京から移住した刀工、来(らい)一族の住居があったと云うところ。一族の石廟
と空井戸が残されていました。今も後裔氏人による祭祀が続けられている模様。

少し歩いたさきに坐す「中島惣社」は、近隣にあった8社を合祀した神社です。中島郷48ヶ村
の親宮で、白雉2(651)年の創建と伝わる。なぜか、向きがヘンな鳥居が残っていたりします。
また、一番奥の、本殿に近い鳥居が、ちょっと変わった様式のものでした。


立派な塀に囲まれた、ここは「崇(そう)禅寺」。なんと門前に「県庁所在地跡」の石標があり
ました。明治初期、ここに「摂津県」の県庁が置かれた時期があるんやそうな。


整備工事中の境内を、新築なった本堂の前をすり抜けて北隅の納骨堂?へ進みます。そこに
あるのは、何やら仇を討とうとして返り討ちにあった遠城兄弟の墓らしい。細川ガラシャや足利
義教の首塚も並んでいました。


この日のてくてくツアーは、阪急電車崇禅寺駅前で解散。淡路駅前後の壮大な立体高架化
工事の進捗で、崇禅寺駅でも高架化工事が進んでいました。いつまで掛かるんか知らんけど。

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