“鉄炮の街” 堺の「七道」を歩く
江戸時代からの街並みが残されている「七道」の由来は、かつて “七堂濵” と呼ばれ、行基
が開いた清浄土院高渚寺(たかすじ)の “七堂伽藍”(三門/本堂/塔など7つの建物) があった
からだそうな。南海本線「七道」駅前ロータリーには、不思議な姿の銅像がありました。

銅像は「河口慧海(ーえかい)」です。仏教原典入手のため、明治30(1897)年に神戸を発ち、
苦難の末、鎖国下のチベットに赴き、6年もの潜入行からの帰国後、「西蔵(チベット)旅行記」
を著した人です。その慧海も学んだと云う修験道場「清学院」には、ゆかりの資料や寺子屋
教科書が展示されていました。その途中、慧海の生家跡との石標も残されていました。(狭っ)

七道駅のスグ西に巨大なイオンモールが
出来ています。もとのダイセル(大阪セルロ
イド)の工場跡地で、伊丹空港の前身と云わ
れる、かつての木津川飛行場を飛び立った
水上機(白浜行き?)がその煙突に衝突した
ことがあるとか。
富士フィルムは、ダイセルの子会社として
誕生した会社です。七道にフジカラー現像所
があり、高校写真部のころ、郵送にしないで、
カラーフィルムの現像/焼付を頼みに、しばし
ば訪ねたものでした。
七道駅前には、もう一つ、「鉄砲鍛冶射的場跡」碑もありました。大正時代、運河掘削中に
漢文碑「放鳥銃定限記」が発見され、鉄砲師範が試射場を作って砲術を研究していたと云う。
かつて七道にあった高さ1.8mの “鉄炮塚” から大和川に向けて試射していたんだそうです。
鉄砲にゆかりが深い土地であるゆえ、七道駅界隈は、現在も「鉄炮町」と呼ばれています。
大坂冬の陣で埋められるまで、中世の堺は “環濠自治都市” で、防御面だけでなく、環濠が
各地との交易品の輸送経路としても活躍したらしい。遊歩道として復元整備された環濠の近く
に「海船政所跡(かいせんまんどころー)」と云う碑がありました。
阿波の三好長輝が阿波と京との中継地点として館を築き高楼を構えて、尼崎城や岸和田城
をも統括、三好一族の本拠的な役割を果たしたそうな。



ところで、堺市の住居表示に “目” がない
のは何でや?と云う件ですが、大坂夏の陣で
壊滅した堺を再整備した “元和の町割り” を
ルーツとして、町を細分する意味の “目” では
なく、独立した“町” と同格の “丁” を用いる
ようになったんやそうです。
だから、後から市域に加わった美原区では
“丁目” が使われているんですな。
戦災を免れた町割りの街路では、碁盤の目の筋が遠くまで一直線に続いていました。
七道駅から西に延びる道は、環濠の北部分であった土居川を埋め立てたもので、高渚寺の
“七堂伽藍” へ参詣するための橋が架かっていたそうな。その千日橋の近くにあった「千日井」
が道路わきに残されています。上水道が整うまでは、飲料水源として利用されたと云う。
傍らには、堺の鋳物師であった神南辺道心(かんなべー)が建てた供養塔もありました。道心
は、放蕩の末に改心し、近畿一円に井戸や橋を作る慈善活動に尽力した人だそうです。



次に訪ねたのは「鉄炮鍛冶屋屋敷」。井上関右衛門家住宅だったのを補強復元した建物です。
全国で唯一残る江戸時代の鉄炮鍛冶の作業場兼住宅で、屋敷全体が堺市の有形文化財に
指定されています。堺の鉄炮は工程ごとの分業による大量生産体制を整えることによって、
日本一の鉄炮生産地になっていったそうです。

この復元されたフイゴ(吹子)は、高さ1m長さ2mもあって、日本一の大きさらしい。

ボランティアガイドの一人は、もと井上家のご当主で、鉄炮製造の体験談が詳しかったです。
この日、大雨の予報だったんですが、時々小雨くらいで救われました。でも、濡れても良い
ように、カメラをコンデジだけにしたため、かなり制約がありました。 (次回に続きます)
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