秀長さんの「大和郡山」➍
豊臣秀長公の菩提寺とされる「春岳寺」は、かなり朽ちていたそうです。もとの菩提寺だった
大光院が京都に移されたのち、位牌と墓所の管理を託されて来たものの、少し寂れていたそ
うです。大河ドラマ “豊臣兄弟” 放映の話しが聞こえたのを機に、住職がクラウドファンデング
を決意、本堂が大幅修復され、新しい寺務所も新設されていました。

織田信長のもとで、秀長公が郡山城主になったのは、天正13(1585)年。100万石に相応しい
城郭と城下町発展に尽力したことが知られています。地代免除や特許状(独占営業権)で商工
業者を集めた綿町・紺屋町・本町(酒)・茶町など「箱本十三町」の制度を整えたそうです。
本殿内の収蔵物は全てが撮影不可ですので、配布されている案内パンフからの拝借です。
左上の秀長公木像は、平成元(1989)年に市民からの浄財によって創られたもの。右となりの
木箱が「箱本」の御朱印箱、左下がその御朱印箱に収納されていた古文書、右下の肖像画は、
天明8(1788)年、秀長二百回忌の際に新調されたものと云うことです。



もとより「春岳寺」の名は、秀長公の戒名「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士」から貰ったもの。
温厚で誰からも信頼が厚かったと云われ、家臣団の面倒をみて、兄秀吉と諸大名・武将との間
を取りまとめていた由。兄のための補佐に徹した生き方により、名補佐役とされて「大和大納言」
にも昇進したが、惜しむらくは秀吉より早く天正19(1591)年に51歳、郡山城中で亡くなりました。
春岳院の南西2kmの高台にある「大納言塚」が秀長公の墓所。毎年4月22日に “大納言祭” が
催され、秀長さんの遺徳を偲ぶ法要が盛大に営まれているとのこと。


廟前に「お願いの砂」と云うがあり、
念じながら砂箱の穴に3度砂を通すと
願いが叶うらしいが、やり方が分からず、
断念しました。次回はお城です。
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