秀長さんの「大和郡山」➎ お城
安土桃山時代の “野面積み” の石垣が残る「大和郡山城」は、織田信長の命で地元武将
の筒井順慶による築城が始まり、天正13(1585)年の秀長公入城によって、畿内統治の重要
拠点として整備拡充されました。今も残る石垣や天主台は、300年にわたって維持・整備され
てきた土木技術や社会構造を今に伝える歴史資産でもあります。

明治6(1873)年に郡山城は廃城となり、櫓・門・塀などの城郭建築は競売によって運び去ら
れましたが、残された石垣や堀の多くは今も往時の姿を留めているそうです。

郡山城の石垣に用いられた石材は、長期にわたって城郭の整備が続けられてきたたため、
年代によって石材も積み方も多様なんだそうです。多くは自然石ですが、中には寺院の礎石
や石燈籠、石臼などの転用石材が1,000個もあるそうです。天主台の石垣の裾に埋められて
いる “逆さ地蔵” もその例でしょう。(写真は天地逆にレイアウトして見やすくしました)

天主台からの眺望は抜群です。再建された極楽橋の向こうに旧県立図書館、東北東には
うっすらと “若草山” も遠望できました。



大和郡山市発行「郡山城の石垣」によると、施工年代を反映して石垣の様式に相違があり、
天正~慶長のものは自然石主体が多く、元和年間以降は粗割石が主体、寛永年間以降は
割石・切石により構築されているらしい。(この種の石垣は解体事例がなく、実態は不詳)
積み方も、築石部の目地が通っていない “乱積み” や横目地を通した“布積み” など色々
あって、“野面積み” と一口には云えないようです。
再建された東多門櫓(-やぐら)にて「秀長と郡山のあゆみ展」が開催されていました。
発掘された金瓦、豊臣大坂城の発掘現場で見たのに酷似してますね。右下のは石仏が彫られ
ていた天主台石垣の転用石。



さて今日もよく歩きました。追手門(梅林門)から出て、近鉄郡山駅へは15分ほどです。
近鉄郡山駅近くのDMG MORIやまと郡山城ホールで開催中の「豊臣兄弟大河ドラマ館」へは
寄りませんでした。歩き疲れていたのもありますが、番宣でしょ。帰途、西大寺駅構内で休憩。

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