「平野郷」まち歩き ③
9月末だと云うのに、ずいぶん暑いこの日でした。なるべく日差しを避けたいので、商店街の
些か古びたアーケードに戻りました。この辺は、まだ活気がある感じです。
商店街が天神筋と交わるあたりに残された石標。左 さかい 住よし なかの などと記されてい
ます。龍田越(亀の瀬越)奈良街道や八尾街道、中高野街道への案内でしょうか。
坂上田村麻呂の娘で、桓武天皇の妃となった坂上春子が開いたと云う「長寶寺」は、南北朝
時代には、後醍醐天皇が吉野への途次、仮の皇居としたこともあるそうです。室町時代の住職
であった慶心坊尼が頓死、恐ろしい地獄の閻魔大王の前まで来たが「このものは閻魔王の実判
を持っているから地獄に落とせぬ」とて、3日後に蘇生したとか。その閻魔王の実判や青蜘蛛
の舎利、閻魔王の木像は、今も長寶寺に残されているそうです。なお、ここでは、水神に祈る
ため、手水鉢の瓢箪に水を掛けることになっているんだそうです。
杭全神社の夏祭りでは、御輿渡御の神事が行われるほど、杭全神社との因縁が深いらしい。
長寶寺の北裏には、「坂上廣野麿屋敷跡」の碑がありました。坂上廣野麿は、坂上田村麻呂
の次男で、大阪市内の東横堀川に末吉橋を架けた末吉家は、その子孫なんだそうです。そして
地名の「平野」も「廣野」が転化したものだと云われています。
重厚な門構えが残る「末吉家」の建物を見ながら、大念仏寺へ歩きます。
大念仏寺へは「南門」から入ります。この門、もとは、現在の平野小学校のところにあった
古賀藩の陣屋門で、廃藩置県後しばらく、平野小学校表門でした。昭和37(1962)年の小学校
改築に際し、大念仏寺に移築されたものとのこと。樟の一枚板で出来た門扉です。
ただいま大念仏寺は、“令和の本堂大改修” 工事中。あの金剛組の施工です。
鳥羽上皇の霊牌と御真影を祀る霊明殿が建てられたのは、保元元(1156)年 。寛永年間には
家康公が合祀され、平成20(2008)年の大修復に際して、あの一休さんと縁のある後小松天皇
も合祀されたそうです。
それはさておき、この霊明殿の南側に、妙な “橋” が残されていました。これは、かつての
環濠の遺構の一つだと云われています。つまり、この石橋の下に水路があったんでしょうね。
帰りしなに、「大源山」の扁額のある山門を振り返りました。この山門は “融通無碍門” (ゆう
ずうむげもん)とも呼ばれ、融通念仏の功徳を称揚しているんやそうな。知らんけど。
大念仏寺門前の「馬場口地蔵」のスグ北には、かつては環濠が回り込んでいたそうです。
現在は、やや広めの路地の感じですが、「平野郷」は、こうした環濠で守られていたんですな。
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