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2023年9月25日 (月)

探索、「東いもあらい」 ②

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 堤防上に細長く連なる「東一口(ひがしいもあらい)」集落の中ほどに、壮大な長屋門を構え
る旧山田家住宅は、江戸時代に周辺の御牧郷13ヶ村を取り仕切った大庄屋で、巨椋(おぐら)池
漁業の元締めでした。「大池」とも呼ばれた巨椋池は、幾多の変遷を経て、昭和16(1941)年に
国内初の国営干拓事業が完成、634haもの農地に姿を変えましたが、山田家住宅は、大庄屋の
格式と巨椋池漁業の面影を残すものとして、国登録有形文化財に指定されています。

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 宇治川との間に太閤堤などを築いて分離した結果、巨椋池に流入する水が減り、水質の悪化
が進行していったそうです。もともと平均水深が1m未満と云うこともあって、干拓されること
が決まったでしょう。干拓後も、上流に天ケ瀬ダムが完成するまでは、宇治川の増水や堤防の
決壊があって、元の巨椋池が再現されたこともあり、氾濫原としての宿命から逃れるために、
大変な労力が投じられてきたと云うことです。(下の地図は旧山田家住宅の展示より)

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 巨椋池の魚介類は大変に豊富だったそうで、モンドリと云う仕掛けや投網で面白いほど獲れた
そうです。それらに用いた漁具も、資料室に展示されていました。

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 少し崩れ掛かっていましたが、庭の築山に上がると、伏見桃山城の姿も遠望できました。

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 この旧山田家住宅は旧堤防上に建てられているのですが、築塀越しに下を見ると、真正面に
「大池神社」の鳥居が望めます。恐らく、干拓後に移されたものでしょう。

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 やはり、巨椋池の堤防上に成立していた「東一口」の集落は土地が狭く、かつての舟屋との
間には、急な階段が設けられていたんでしょう。今も、アチコチに遺構を見ることができます。

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 次回は、現在の排水施設を巡ります。
 
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歴史・遺跡・現説」カテゴリの記事

コメント

私は、中学3年生まで淀に住んでいました。

約50年前に廃校になった淀中学校からの下校時に、自転車でこの辺りに寄り、キュウリ、トマト、西瓜などを拝借(?)し喉と腹を満たしたものでした。

このくらいの記憶しかありませんが、訪れてみたくなりました。
投稿ありがとうございます。

安谷 耕さん、コメントありがとうございます。
淀は東一口の対岸にあたるんでしょうか。いまと同じく、広い農地が広がっていたんでしょうね。
私も、幼いころの一時期、北河内の“水郷”みたいなエリアに居たことがあり、田舟に乗せて
もらったりした記憶があります。形の不揃いな、しかしでっかいトマトは、旨かったですね。


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