大阪砲兵工廠のあしあと
JR片町(学研都市)線沿線には、祝園分屯地(弾薬庫)のほかにも、砲兵工廠/香里製造所
や禁野(きんや)火薬庫/枚方製造所があって、星田駅や津田駅からの専用引込線が敷設さ
れていたそうです。いずれも大阪砲兵工廠の関連施設であり、城東線の一部や城東貨物線、
そして片町線を経由しての鉄道輸送が行われていた模様です。
阪大ナレッジアーカイブに見つけた「日本学報40-41合併号=2022年3月」の詳細な経路
図を参考にして、当時の想定図を作成してみました。城東線(現在の大阪環状線)が高架化
されたとき、地上の旧線を活用して、玉造~猫間信号所(森ノ宮駅の少し北)間に専用線が
設けられ、京橋駅から北へ抜けて淀川貨物駅に入っていたらしいです。淀川貨物駅は、
城東貨物線(現おおさか東線)に繋がっていて、そこから片町線にも入ったようです。


上の写真は、JR片町(学研都市)線の京橋駅です(鴫野方の踏切より撮影)。その南口の改札
を出た先、大阪環状線の高架壁の前に慰霊碑があるのは、意外と知られていません。これは
「大阪大空襲京橋駅爆撃被災者慰霊碑」と納経塔です。慰霊碑は、惨状を目にされた個人が、
被災の2年後に自費で建立されたたものとのこと。(駅前整備で、少し移動したようです)
終戦前日の昭和20年8月14日、大阪城内にあった陸軍造兵廠がB29による集中攻撃を受け、
その際、1t爆弾4発が京橋駅に落とされ、うち1発が高架上の城東線(今の環状線)を突き抜け
て、警報で多数の乗客が避難していた1階の片町線ホームに落ち、断末魔の叫びが飛び交う
生き地獄となったそうです(慰霊碑の碑文より要約)。
今回は “まいまいツアー”に参加して、そんな歴史が刻まれた京橋駅から、悲劇の元凶でも
あった、砲兵工廠跡を巡るてくてくツアーに出発です。小雨の中、ちょっと重い気分でOBP
(大阪ビジネスパーク)への歩道橋を渡りました。

ほぼ高架の環状線が、ここだけ地平を走っているのは、ここに砲兵工廠があったかららしい。
現在、JRと大阪メトロの電車の車庫があるあたりも、その一画だったんです。私が高校生の頃、
そこには、赤茶けた広大な鉄骨群が野ざらしにされていた記憶があります。
“水都めぐり”の水上バス大阪城港は、大阪城ホールのスグ横。まずは、天満橋へ向かいます。
この水門は、砲兵工廠荷揚げ門。船からの荷揚げ用でしょう。中の方は埋められていました。
寝屋川と第二寝屋川の合流点。第二寝屋川は、300年前に付替えられた古大和川の水系です。
この辺りには、広大な貯木場があり、木工関係の加工場が集約されていたそうです。この周辺
は、現在は、城見緑道公園として整備されています。(あまり訪れないエリアですが)
新鴫野(しぎの)橋を渡って、多くの鉄工場が林立していたと云うエリアに進みます。

いっとき、晴れ渡りました。右手の丸い屋根が大阪城ホール、向いが H.ニューオオタニや
YTVなど、OBPのビル群です。新鴫野橋から東向きの光景です。
大阪城の案内図に、砲兵工廠があった範囲を書き込んでみました。ずいぶん広大です。

大阪城ホールの南に「砲兵工廠跡」の碑がありました。火砲製造所
があった場所だったと云うことです。
そこから西に、堀に沿って進むと、妙なものが置かれていました。
これ、鉱滓らしく、鉄を溶かした時にできるカスの塊りだそうです。

そして、その北側に残されているのが、砲兵工廠の化学分析場だった建物です。今は廃墟
同然ですが、平成の中頃までは、自衛隊の地方連絡所とかに使われていたそうです。
かつては衛兵舎だったが、トイレに使用されていた建物は、朽ちようとしていました。その
前を、賑やかに通り抜ける “ロードトレイン” が、しばし、気分を和ませてくれました。

この「大阪砲兵工廠のあしあと」は、“まいまい京都”のてくてくツアーに参加し、昨年3月
に取材したまま、放置していたものです。同ツアーで提供された資料が薄く、自分の記憶と重
ならない部分もあったのですが、ようやく再構成することができました。次回に続きます。
クリックといいね💛を宜しくお願いします (主に2021/3/13撮影)
にほんブログ村
« JR片町線の旧「川西側線」廃線跡 ② | トップページ | 大阪砲兵工廠のあしあと ② »
「歴史・遺跡・現説」カテゴリの記事
- 「物集女車塚古墳」② 石室へ潜入(2026.08.03)
- 「物集女車塚古墳」の石室へ ①(2026.07.30)
- “美形”「市尾墓山古墳」の石室へ(2026.05.25)
- 世界遺産/百舌鳥「長塚古墳」に上ってきた(2026.03.23)
- あの「箸墓古墳」で二つ目の “渡り土堤”(2026.02.23)


コメント