亀岡の明智光秀 ①
光秀は、何者なんでしょうね。
(京都大河ドラマ館パンフより)
京阪電車枚方市駅からJR亀岡駅へ直通する高速バスに乗っ
てみました。JR高槻、高速長岡京を経て約75分。京都サンガ
FCのスタジアム以外、ほぼ何もないJR亀岡駅北口に到着。
1時間に1本しかないローカルバスの時刻に合わせて、まずは、明智光秀の首塚があると
云う「谷性寺(こくしょうじ)」へ。“光秀の首塚”と云うのは、京都市内の白川橋近くなどにも
あり、どれが本物かなどと詮索するのはやめておきましょう。
谷性寺の「明智山門」は、昭和51(1976)年、亀岡城下にあった西願寺が廃寺になるときに
当寺に移築されたもの。
その門の先に、光秀の首塚が見えることから「明智山門」と名付けられたとのことですが、
西願寺にあった時から「明智山門」だった説もあるようです。
丹波を平定した光秀は、谷性寺の本尊である不動明王を厚く信心し、信長を討つべく本能寺
へ向かう際には「一殺多生の剣を授け給え」と請願したそうです。
山科の小栗栖の「明智藪」で討たれた光秀を介錯したと云う溝尾庄兵衛が、光秀の首を近臣
に託し、生前信仰していた谷性寺に運ばせたそうです。この首塚は、そんな光秀の怨念を鎮め
るべく、幕末に立てられたものです。
谷性寺は、こじんまりとしたお寺で、村のお寺の感じです。
谷性寺でキョロキョロしていると、地元の方が話しかけてこら
れ、色々と説明してくれました。中には、明智光秀と云う人は、
一人ではなかったのではないか、と云う話しにはソソラレました。
医者/土木技師/稀有な政治家/領民に慕われた名将/狡猾な
謀略家など、とても一人の人物とは思えないと云うものです。
各地にいた明智と名乗る人の所業が、光秀にフォーカスされて
歴史となったんでなければ、とんでもない“スーパーマン”だった
んでしょうな。
曰く、謀反人とかの悪いイメージで語られることの多い光秀ですが、ここ亀岡では、武人で
あり、文化人でもあって、善政を行った名君主として慕われているのだそうです。
そんな光秀を偲び、境内には明智家の家紋である桔梗が植え
られ、門前の“桔梗の里”では、5万株もの桔梗が植えられてい
るそうです。この日、“桔梗の里”は入場無料でしたが、バスの
時間が迫っていたため、外からのチラ見で済ませました。
亀岡市内のバスは、京都京阪交通バス。京阪バスと同塗色。
狭い旧道に入り込んできた亀岡駅行き(猪倉バス停付近)。
一日乗車券の日付が違っていました。でも、今朝、亀岡駅の案内所で買ったと云うと、乗降
出来ましたが、うっとおしいので、3回目の乗車前に案内所を再訪し、訂正してもらいました。
こんなんでエエんかなぁ、と思いつつ、乗れればエエことですな。
(JR西日本/ちょこっと関西/歴史旅パンフより抜粋)
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亀岡は、案外近いのです。次回につづきます。
(2020/10/28訪問)
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こんばんは!
私は、明智光秀は普通に戦国時代に生きた男というイメージです。
野心に満ちた精力的な武将であって、信長に仕えて立身出世を遂げたものの、使い捨てにされる危機感を抱いて信長の隙を突いたに過ぎない。
光秀の首は本能寺の焼け跡に晒されたとか、刑場に晒されたとか・・・。
晒された後は人知れず捨てられますから、首塚として残るとは思えませんね。
首を拾って来てそんなモノを造れば、後の政権、豊臣・徳川政権にすぐに取り壊されてしまいそうです。
谷性寺の首塚・・・ロマンですねぇ・・・。
投稿: FUJIKAZE | 2020年11月 2日 (月) 21時31分
FUJIKAZEさん こんばんは。
亀岡での光秀は、これまで何となく抱いてきた光秀像とは、大きく乖離したモノでした。
その是非は、ともかく、信長に仕えて“出世”はしたものの、それは、望んだものでは
なかったのかも知れませんね。
今頃になって、各地の寺社や個人から、光秀に関する新たな史料が発掘されている
そうです。大阪府茨木市の山手の民家の屋根裏に、キリスト教の史料が隠匿されていた
のと同様、敗者の歴史は閉ざされてしまうものなんでしょうか。
NHKのドラマでも、その方向が垣間見えるようです。あと、福知山・坂本にも覗きに
行ってみようと思っています。
投稿: 南太郎 | 2020年11月 5日 (木) 00時17分