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2020年9月28日 (月)

小栗栖、明智光秀 終焉の地 ②

 「明智越え」から急な山路を戻り、小栗栖八幡宮に出ました。ここの神主も、代々 飯田一族
が務めたと云うことで、誤って、このあたりを小栗栖城址と記す書物もあると云います。

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          小栗栖八幡宮から「明智藪」への途中にあった “やいと”
         の寺本。江戸時代から続く老舗らしい。知らんけど。

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          光秀の供養塔がある本経寺との分かれを右手に進みます。

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 いきなり「明智藪」の碑。ここ、本経寺の境内の一画。崖がコンクリで補修されていました。

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 ですが、本来の「明智藪」は、この先30mと云うので、坂を下ったところに案内の木柱。
ここも、本経寺の境内だそうです。(もとは、この更に奥40mのところにあったとか)

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 本能寺で、主君であった信長を討ってから僅か11日後、明智光秀は、坂本城への敗走の途中、
小栗栖の藪中で、落武者狩りにあって落命したと云うことになっています。でもそれは、飯田の
手勢によるものだと云うのが、地元の見解だそうです。

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 小国政「小栗栖の露」(大山崎町歴史資料館蔵)の絵が掲出してありました。太田牛一旧記
によると、明智は、小栗栖(おごろす)とて古里にて、落人狩りの百姓共が誰彼無く藪越しに突
いた錆びついたヤリが腰骨に突き当たり、二三町行った先で落馬、自刃したと云う。

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 ふと振り返ると、先ほど登った「小栗栖城址」の北西側が目前に広がっていました。城址の
手前では、ショベルカーが整地作業をしており、何かの道路が出来る感じです。少し前までは、
深い竹藪に覆われていて、全く城址の感じには見えなかったそうです。(私有地)

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 戦国時代の小栗栖とその周辺図(ツアーの配布資料=柴裕之「光秀が歩いた道1,2」より)。

左下の天王山から右上の坂本をめざしたのだろうが、大道を通らず、田畔伝い藪中を忍々落行。

 小栗栖二村の間に深草へ出ずる坂道あり、明智越えと云う。その坂道は、明智藪の少し北側
に続いていて、明智一行は、雨中の暗夜で行き惑い、藪の中を小栗栖城に近づき過ぎたのかも
知れへんなあ、と思ったりしました。

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                                  (クリックすると拡大します)

 「明智藪」から更に北上した勸修寺(かじゅうじ)の近くには、「明智胴塚」があるらしいの
ですが、この日のツアーは、明智藪にて終了(12:10)。地下鉄醍醐駅へ急ぐことにしました。
  
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 【まいまい京都】「明智光秀・最後の謎!歴史研究者とたどる戦国時代の小栗栖」
         ~小栗栖城から明智藪まで~ ガイド=谷口拓さん(醍醐歴史研究会) 
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コメント

こんばんは!
たいへん興味深く拝見させていただきました。
山崎で敗れて小栗栖を通って坂本城へ・・・。
もう少しだったんですねぇ。
明智藪かぁ・・・訪れてみたいものです。

FUJIKAZEさん、いつも、ありがとうございます。

 光秀は、誰に討たれたのか? なぜ百姓共にやられたことになっているのか?
落武者狩りは、追剥ぎみたいなもんで、誰も光秀の顔を知らないはずで、竹ヤリ
や錆び朽ちたヤリを藪越しに突いたら腰骨にあたった、なんて記述を目にする
と、哀れに思ってしまいますね。

 来年2月まで、「明智光秀と戦国時代の大津」展示中の大津市歴史博物館を
キーに、小栗栖に足を延ばされては如何でしょう。

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