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2020年3月16日 (月)

一休禅師の足跡⑱《関の地蔵院》

         JR関西本線の“気動車区間”にある関駅から歩5分ほど、
        関地蔵院への辻には、艶っぽい歌碑も並んでいました。  

        P1030112         

 久しぶりの「一休禅師」です。禅師は、京/嵯峨野の地蔵院にて誕生したと伝えられています。
その地蔵院と名前だけが類似する「関の地蔵院」にも、一休禅師の逸話が伝わっていました。
 先ほどの歌碑から更に歩5分、地蔵院の紅っぽい鐘楼が見えてきました。

P1030115

 行基が天平13(741)年に安置したと伝わる地蔵菩薩を 里の人が洗い清め、お堂も直したとき、
偶々通り掛かった一休禅師に開眼供養を依頼したところ、妙な歌を詠んで、立小便して立ち去っ
たんだそうです。

P1030146

   それに怒った里の人が、別の身なりが立派なお坊さんに、開眼供養をやり直してもらった
その晩、在所の者に地蔵さんがとりつき「せっかく名僧によって眼を開いたのに、つまらぬ
供養のやり直しで、ワシを迷わせるのか! 元に戻せ!」と口走ったと云います。

P1030138

 慌てて追いかけ、桑名宿で追いつき懇願しましたが、禅師は「引き帰すことは出来んゆえ、
この下帯(ふんどし)を地蔵さんの首に掛け、ワシの歌を三べん唱えよ」と教えたそうです。
使いの人が云われたようにすると、あっと云う間に、乗り移つられて熱にうなされていた人
は、普通にもどったんやそうです。(三重県亀山市のHP「関の昔話」より)

P1030140

 関の地蔵菩薩が、今も麻の布切れを首に巻かれているのには、そんな由来があったんですな。
ところが、地蔵堂内の拝観は、事前予約が必要で、この日は、叶いませんでした。ぬかった‼

P1030132                 
  
         境内にあった鹿の坐像。壬申の乱の折り、大海人皇子が
        吉野から関への途次、道に迷われたが、鈴をつけた鹿が現
        れ、皇子を乗せて関の里に無事到着されたそうな。
         それ以来、この一帯を「鈴鹿」と呼ぶらしく、それに因ん
        で、この鹿の像が寄進(昭和47年)された由。関係ないか。

        P1030125

        その後ろには、小さなお地蔵様のお堂が連なっていました。

        P1030147

        P1030126

         手水舎に掛かる関宿かるたの一節にも、一休禅師が
        詠み込まれています。「 ㋑ 一休が 開眼供養の 地蔵院 」 

        P1030130

 一休尊像は、本堂(地蔵堂)の真向かいに坐していました。

P1030135

 関地蔵院の門前で、旧東海道と停車場道(明治23年に関停車場設置)とが交差し、街並みには、
関宿を代表する旅籠などが連なっていました。

P1030128

         関へは、京都~草津~柘植~関と乗り継いで来ました。遠い。

         4_20200310125501
           クリックすると拡大します     (イオンライフのHPより抜粋/翻案)

         次回では、関宿の街並を少しブラブラします。

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一休禅師の足跡」カテゴリの記事

コメント

こんばんは!
鈴鹿の由来を初めて知りました。
そういえば、鈴鹿も壬申の乱の舞台ですものねぇ・・・。
一休禅師はともかく、私には鈴鹿の方が興味深いなぁ・・・。

FUJIKAZEさん、一休宗純は室町期の破戒僧ですが、壬申の乱は 672年ですから、
さすが歴史の深さが違いますねぇ。“義経伝説”のような、
 復活話があちこちに残っているそうですので、その点でも、興味深いのでしょうか。
ロマンですね。

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