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2013年9月17日 (火)

赤貧いとわぬ修行の地、堅田の祥瑞庵  〈 一休禅師の足跡 ⑧ 〉

 前回の少林寺(矢島)から、JR守山駅に戻りました。今度は、近江鉄道バスと江若バスが共同運行するバス(ほぼ1時間に1本、所要40分、500円)で、琵琶湖大橋を経由して、対岸の堅田へ向かいます。このときのバスは、江若(こうじゃく)バスでした。



 

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  琵琶湖大橋を渡ると、もうすぐ堅田です。





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  堅田駅前から出る小型のバスに乗ると、「浮御堂前」まで直通です。(土休日のみ)

堅田に来たら、まずは「浮御堂(うきみどう)」でしょう。湖上から眺めるのとは、また違った趣きです。




 



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  晴れ渡った湖面を吹く、少し強い風が、なんとも心地よい ひと時でした。


  



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  琵琶湖大橋の全長が目の前に浮かびます。

 


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  バス停の近くまで戻ると、「湖族の郷資料館」がありました。暑かったので、「冷房中」の看板に誘われて、玄関に入ると、やぁやぁいらっしゃい、2階も見て、写真も撮ってや、とのこと。明治から昭和にかけて活躍したと云う「淡海節」の志賀廼家淡海のお話しなども説明してくれました。もちろん、一休さんのこともです。

 堅田歴史文庫 ① 「一休さんと堅田」と云う本を、ここで買い求めました。




 

  

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  一休さん(この頃は 宗純)が訪ねた頃の堅田は、琵琶湖の漁業権・航行を取り締まる関務(せきむ)権・船を安全に運行させる上乗(うわのり)権の3権による莫大な財力を背景に、“堅田千軒”と称する琵琶湖最大の街であったそうです。



 


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  この「湖族の郷資料館」で 「祥瑞寺」への道を尋ねると、外へ出てきて教えていただきました。


 


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 途中、自由都市「堅田」の運営を司っていた伊豆神社や、親鸞聖人の御真影を三井寺から取り戻すため、自らの首を父に切らせて差し出したと云う漁師親子の殉教物語の像がある光徳寺(こうとくじ)の前を抜けます。





 


 


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 形ばかりの環濠をめぐらせたところに、大きな 「一休和尚修養地」 の石柱が目につきます。ここが 「祥瑞寺(しょうずいじ)」 です。









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  「祥瑞寺」 は、古くは、祥瑞庵と云い、宗純は、ここで22~34歳の間、12年間も修行したんだそうです。師・謙翁を失い、失意の中で、江州堅田にあった、華叟宗曇(かそうそうどん)を訪ねました。しかし初め、師は頑なに入門を拒絶したと云います。

 京を嫌い、赤貧を善しとした宗曇は、自身が漁民の布施で細々と生きていたため、 若き宗純は、しばしば京へ出て、香包(においつつみ)や雛人形の彩衣作りに励んだそうです。まあ、出稼ぎかバイトですか。

 

 堅田からは、丹精込めてこしらえた品物を抱え、仰木(おおぎ)越えで都に向かったことでしょう。資を得るために「濁」の京で働き、「清」の堅田に戻っては修行を続けた、そのことが、のちの“風狂”につながると考えるのも一興かも知れません。
  



  
 

  
  


  ところで、「一休」 と云う道号は、琵琶法師が語る平家物語、祇王失寵(ぎおうしつちょう)の段を聞いて、公案を解いたときに、師・宗曇から賜ったのです。宗純25歳のことです。ここから、「一休」の名が始まるのです。


  


 

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  有漏地(うろぢ)より無漏地(むろぢ)へ帰る一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け




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 その後も、ますます過酷な修行に挑んだ一休禅師は、27歳、ある夏の夜、鴉(からす)が鳴く声を聞いて悟るところがあって、それを師に示したんだそうです。

 

 師・宗曇が、「それは羅漢(らかん=狭い範囲の悟り)の境涯であって、作家の衲子(さっけののっす=すぐれた働きのある禅者)ではない」と指摘されたのに対し、一休禅師は、「私は羅漢で結構です。作家(さっけ)などにはなりたくない」と返されたのです。そこで、師・宗曇は、「お前こそ作家だ」と称えたのだそうです。


 
  

 ・・・凡とか聖とかの分別心や 怒りや傲慢のおこる以前のところに即今気がついた。そんな羅漢な私を鴉は笑っていたのだ・・・「一休」 の道号を得てから2年後の、この出来ごとを、一休大悟(たいご)と云うそうです。







 

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  「祥瑞寺」 には、後年、芭蕉翁も訪れて、句を残しています。



 



 
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  一休禅師が修行した頃は、赤貧のボロ寺だったそうですが、現在は、清浄で風格のあるたたずまいです。開山堂には、開祖・華叟宗曇と一休禅師の木像が安置されているとのことですが、事前予約していなかったので、残念ながら、本堂内の拝観は、かないませんでした。(手前の庭園は自由)

  


  



  

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  帰路は、やはり、「浮御堂前」 バス停まで戻るのがよろしおます。先ほどの「湖族の郷 資料館」の前です。(平日は、少し駅寄りまでしかバスが来ません)

 暑かったので、バスを待つ間に食べた、下の写真で、幟が立っている茶店のソフトクリームがおいしおましたな。

 

  


  

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  そうそう、JR堅田駅前に、「淡海節」の志賀廼家淡海(しがのやたんかい)の碑が、懐かしい、藤山寛美の名とともにありましたでぇ。



  


  

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   参考文献 

 「一休」 水上勉著 昭和55年 中央公論社刊

 「一休さんと堅田」 平成17年刊  「一休さんのくに」プロジェクト委員会 

 冊子 「びわ湖堅田 湖族の郷」 湖族の郷 運営委員会


  

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